アルチュール・ランボーとパリ・コミューン

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フランスが生んだ天才少年詩人アルチュール・ランボーは、普仏戦争の勃発からパリ・コミューンの成立と崩壊という歴史的な事件に遭遇し、自分自身パリ・コミューンに深くかかわった。その体験の中から、輝きを放つ一連の作品を書いた。そのランボーは、マルクスとは全く接点を持たないと言ってよかったが、パリ・コミューンを介して何らかの因縁のようなものを感じさせるので、ここに取り上げて見る次第である。

ランボーの先駆者ともいえるボードレールは、1848年の二月革命を体験している。ボードレールは二月革命の喧騒に乗じて、王党派の将校であった義父のオーピックの命を付けねらったのだが、それには二つの動機があったと指摘できる。一つは共和制の側に立って、敵に立ち向かうという崇高な動機である。もう一つはずっとプライベートなもので、自分から母親を奪った男に復讐したいという動機であった。

ではランボーはどんな動機からパリ・コミューンにかかわったのだろうか。普仏戦争が始まったのは1870年7月だったが、その時まだ15歳の少年だったランボーは、生来多感な性格を刺激されて、大いに奮発した。この戦争では、フランス側にはいいところはなかった。その理由がフランスのブルジョワどもの偽善と無責任ぶりにあると感じたランボーは、自分でも何できるのではないかと、少年らしい空想を逞しくしたようだ。ランボーが暮らしていたシャルルヴィルは、普仏国境から近く、プロシャ軍の大砲の音が毎日聞こえてくるようなところだった。そんなところですっかり興奮状態に陥ったランボーは、たびたび家出を決行してパリに事情視察に赴いたほどだ。いちどきは、プロシャの占領地区から来たことを理由にスパイ扱いされ、豚箱に放り込まれたほどであったが、ランボーはそうした抑圧にめげず、ことのなりゆきを見守ってやろうと決意したようである。

1871年3月18日にコミューン宣言が出され、パリ・コミューンが成立すると、ランボーも何らかのかたちでコミューンと行動を共にしたようである。ランボーには。もともとアナーキズムの傾向があったが、コミューンとのかかわりはそうした傾向を一層強めたようだ。コミューンの思想を支えていたのは、プルードンのプチブル共和主義とブランキのアナーキズムだったが、ランボーはそのブランキに共鳴するところがあったのではないか。もっともランボーは、自分の政治思想を文章にするようなことはしなかったので、彼の思想は詩を通じて間接的に推測するしかない。

その詩であるが、ランボーがコミューン体験を直接語ったものとしては、まず「パリの軍歌 Chant de guerre Parisien」があげられる。これは、ティエールらのヴェルサイユ政府がパリ・コミューンに武力攻撃を加え、七万人ともいわれるコミューン側市民を虐殺したことを取り上げたものだ。おそらく、コミューン崩壊の直後に書いたものと思われる。ここにその全訳を紹介しておこう(拙訳、以下同じ)。

  春もうららだ 何故かって
  ティエール殿やピカール殿のおかげで
  財産の所有権もご安泰となったから
  神聖にして不可侵というわけさ

  うららかな五月 陽気な宿無しどもがゆく
  セーブル ムドン バニュー アスニェール
  歓迎の音楽を聞こうじゃないか
  春の気配がいっぱいだもの

  宿無しどもは帽子をかぶり腰にはサーベル
  威勢のいい太鼓は張子じゃないぞ
  小船の作り物までかついでいるな
  血に染まった川を渡ったわけじゃないらしいが

  いつにも増してのお祭気分
  人間どもの群はシロアリのようだ
  黄色い頭がうじゃうじゃとして
  夜明けの街をうろつき歩く

  ティエール殿 ピカール殿は天使さまじゃ
  天使様にして首切り役人さまじゃ
  しかも弁舌さわやかな御仁たちと見える
  なんでもかんでもお切りになさる

  あなた様方は偉大なお方様がたじゃ
  ファーブル殿の名も忘るまいぞ
  アイリスに埋もれて涙をお流しなさる
  ワニの涙のような辛くて実のない涙 

  街中は石ころであふれている
  舗道をはがして投げたやつだ
  畜生 こいつらを手に掴んで
  もう一度あいつらにぶっ放してやりたいもんだ

  道端にへたり込んだ
  どんなに間抜けな田舎者でも
  街路樹の枝が石ころで割られ
  赤い血が吹き出るのに驚くだろう
   
ティエールに代表されるヴェルサイユの政府がブルジョワの代弁者であることを、ランボーは正確に見ている。その軍隊がみすぼらしく見えるのは、つい前日までプロシャ軍の捕虜だったからだ。ビスマルクはティエールの懇願を受け入れて捕虜たちを解放し、コミューン攻撃に使わせてやったのである。だからコミューン攻撃が、ティエールとビスマルクの共犯だということを、ランボーは正しく理解していたわけだ。そんなティエールの暴力団に向かってランボーは、歩道をはがした石を投げつけてやりたいと叫んでいる。

「盗まれた心 Le Coeur Volé」は、強姦された恨みを詠ったもので、強姦されたのはランボー、強姦したのはパリのごろつきどもといわれているが、実はこれも、強姦されたのがパリ・コミューン、強姦したのはティエールのブルジョワ政府と読み替えれば、すこぶるわかりやすい。これも全文を掲げておこう。

  俺の哀れな心臓が船尾でよだれを垂らしている
  タバコの脂がまとわり付いた哀れな俺の心臓
  その上に奴らがげろを浴びせかけて
  俺の哀れな心臓は船尾でよだれを垂らしている
  船員たちはそんな俺の心臓をからかい
  大笑いに囃し立てるが
  俺の哀れな心臓は船尾でよだれを垂らすばかり
  タバコの脂がまとわり付いた哀れな俺の心臓

  怒張してそそり立つ偉大な男根が
  奴らの罵り騒ぎで萎縮した
  舵の柄に描かれたフレスコの絵
  怒張してそそり立つ偉大な男根よ
  おお波よ! アブラカダブラ!
  俺の汚れた心臓を洗い清めてくれ
  怒張してそそり立つ偉大な男根が
  奴らの罵り騒ぎで萎縮した

  奴らが噛み煙草をかみ捨てたら
  次は何が起こるんだ 盗まれた俺の心よ
  バッコスの巫女たちの乱痴気騒ぎか
  奴らが噛み煙草をかみ捨てたら
  とりあえず酔い止めの薬でも飲もう
  俺の心が再びおかしくなる前に
  奴らが噛み煙草をかみ捨てたら
  次は何が起こるんだ 盗まれた俺の心よ

「怒張してそそり立つ偉大な男根」とは、強姦者のそそり立つ男根というより、パリ・コミューンの勇ましい信念を象徴したものだろう。その勇ましい信念も、ティエールの暴力団によってはずかしめられてしまった。それをランボーは、盗まれた心に喩えたわけであろう。

「酔いどれ船 Le Bateau Ivre」は、ランボーの最高傑作の一つといってよいが、これにもパリ・コミューンが影を落としている。これは、コミューンを一隻の船にたとえ、その船が酩酊しながら地球の海を放浪したあげくに、ついには海の藻屑と消えゆくさまを描く。つまり、パリ・コミューンの船出と没落とをテーマにしているわけで、パリ・コミューンの没落にヨーロッパの没落を重ね合わせているのである。これは長い詩なので、その一部、最後の部分を紹介する。

  だが俺は十分すぎるほど涙した 夜明けが痛い
  月は残忍で 太陽は昇るたびに辛辣だ
  愛が俺を飲み込んで麻痺させる
  船体よ裂けよ! 海の藻屑と消えん! 

  俺は散りばめられた無数の星を見る
  島々を空が覆い すべての船乗りを迎え入れる
  寝ているのかお前たちは この底なしの夜の中で
  数知れぬ黄金の鳥たちよ 未来を生きるものたちよ

  ヨーロッパに俺の浮かびたい水面があるとしたら
  それは黒くて冷たい水たまり
  悲しみに蹲った子どもが芳しい黄昏に向かって
  5月の蝶のように壊れやすい船を浮かべる水たまり

  波よ お前の倦怠に漬かってしまった俺は
  もはや綿を運ぶ航海に出ることはできぬ
  旗やペナントをはためかして走ることも
  廃船を尻目に航海することもできぬ
    
パリ・コミューンが崩壊したとき、ランボーはまだ17歳にもなっていなかった。その年齢で、ヨーロッパの没落を見てしまったのである。かれがヨーロッパの人間世界から脱出して、アフリカの砂漠に消えてしまったわけが、ここにあるような気がする。






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