海と毒薬:熊井啓

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「海と毒薬」は、遠藤周作の同名の小説を映画化したものである。遠藤がこれを書いたのは1957年のことで、それを読んだ熊井が早速映画化の承諾を取り付けシナリオまで書いたのだったが、テーマが重すぎて制作者があらわれず、やっと1986年になって自主制作にこぎ着けた。テーマが暗鬱なわりには大きな評判をとった。

遠藤の小説は、1945年に起きた米軍捕虜の生体解剖事件、いわゆる「九州大学生体解剖事件」に取材したものである。これは、日本上空で撃墜されたB29の乗務員八名を、日本軍と九州大学の医局員が共謀して生体解剖したとされる事件で、戦後の軍事裁判で裁かれその概要が明らかになった。

クリスチャンである遠藤はこの事件を、宗教的な見地から取り上げたようだ。この事件に関わった日本人は、いずれも空気に流されるように受動的に参加し、そのことについて主体的な意思を持たなかった。それは彼らが信仰を持たず、したがって真の意味における良心を持たなかったからだ、そんなふうに遠藤は感じて、日本人の無信仰の悲惨さを訴えたかったようなのである。

そんなわけであるから、事件を告発しようというようなスタンスからではなく、人間の内心を掘り下げようという視点から小説は描かれている。その内心の状況の描写は、裁判の証拠書類によるところも無論あるが、小説という体裁もあって、遠藤自身の想像によるところも多いと言う。

熊井は、遠藤の小説にかなり忠実に映画化した。原作と異なるのは枠組みの設定で、映画では生体解剖に関わった二人の医師と一人の看護婦が米軍によって尋問される過程で、過去の事実を回想するというような設定になっている。その回想の中で、この三人の当事者がなぜ米軍捕虜の生体解剖というおぞましい事柄にかかわるようになったか、それについて彼らがどのように感じたか、などが明らかにされる。それを見る限りでは、一人の若い医師を除き、この事件にかかわった人々がほとんど良心の呵責を感じず、下の者は上のものの言いなりになって動き、上の者は自分の名利に駆られてこの犯罪的な事柄に手を染めたというふうに伝わってくるように作られている。

さきほど言ったように、告発的な意図はないようだから、登場人物たちの行動を道徳的な見地から糾弾するというような感じはない。彼らの内心の動きにもっぱら焦点を当てているのだが、その内心と言えるようなものが、ほとんどの人物から感じられない。唯一良心の呵責に苦しんでいるのが一人の若い医師なのだが、その医師にしても、自分の疑問を徹底して考えるという姿勢はない。要するにこの事件にかかわった日本人はすべて、本当の意味の良心を持ち合わせていない。仮に良心に苦しんでいるように見えていても、それは真の意味の良心というよりは、自分のなかにある弱さの表われだ、というような感じが伝わってくるのである。その意味でこの映画は日本人の良心についてのシビアな批判になっているわけだが、その批判精神は無論クリスチャンである遠藤のキリスト教的な感性に根差したものであろう。

良心を持たないということでは、帝国軍人がその最たるものだ、という批判的な見方もある。この映画に出てくる軍人たちはみな、生体解剖を気晴らしのように楽しんでいるように描かれ、気晴らしのついでに捕虜から取り出した肝臓を酒の肴にしながら浮かれ踊る姿が描かれている。このシーンは、裁判で問題になった人肉食を取り上げているのだろうが、このことについては事実関係への疑念も出されていて、全容はかならずしも明らかではない。

批判のついでに、米軍に対する批判もある。米軍に尋問された日本人の若い医師が、米軍が日本人の残虐さを非難していることに対抗して、広島・長崎で大勢の人を殺したものが他人の残虐さを非難する資格はないと言う場面が出てくるところだ。

映画の最後のシーンで、日本側の被告24人について、彼らが有罪判決を受けた後で恩赦に浴し全員釈放されたというメッセージが流れる。これは歴史的な事実だ。そのことについて、当時は疑問が渦巻いていたらしいが、そんなこともあってこの事件には不可解な部分が多いと言われているようだ。






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