学海先生の明治維新その一

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 依田学海という名を聞いて何か思い当たる人はほとんどいないだろう。明治の二十年代前後に演劇界にかかわったことがあるので、明治の演劇史に明るい一部の人に知られているだけではないか。彼の劇作家としての業績は、勧善懲悪風の古くさい演劇観に毒されていたようなので、今日彼を評価するものはいないに等しい。ここで「いたようなので」という曖昧な言葉を使った理由は、小生自身依田学海の演劇上の業績をひもといたことがないからで、彼の書いた戯曲が果たしてどのようなものか、確認したことがないからだ。にもかかわらず小生が依田学海に関心を持つに至ったのには別の理由がある。小生は小学生の頃に千葉県の佐倉に移住してきて以来そこで育ったのであるが、依田学海はその佐倉にゆかりのある人だと知ったことが機縁となって、興味を抱いたのだった。
 依田学海を小生に紹介したのは、小学校以来の友人小出英策だった。小出英策は先祖代々佐倉の人間で、現在佐倉小学校のある最上町というところに家がある。この最上町という地名にはいわれがあるのだと英策はあるとき小生に話してくれた。佐倉藩は山形の最上地方に飛地があったが、英策の先祖は佐倉藩主堀田家の家臣としてその飛地に配属されていたところ、諸般の事情があって佐倉へ異動させられた。同僚の武士たちの多数も異動の対象となって、一緒に佐倉へ引っ越してきたが、その際に一団の土地を指定されてそこに住むように命じられた。その土地は以後、彼らのやってきた地の名をとって最上町と呼ばれるようになったというのである。
 ここで、小生と小出英策との出会いについてすこし触れておきたい。小生の家族が東京から佐倉へ引っ越してきたのは小生が小学校四年生の二学期の終わり頃のことだった。小生はその時トラックの助手席に乗せられて沿道の風景を眺めながら佐倉の町に入ったのだったが、沿道には藁葺き屋根が垣間見え、庭に植えられた柿の木の枝に、鳥のために残されたという柿の実がいくつかぶら下がって見えたのが印象的だった。それまでは東京のどまんなかの麹町に住んでいたので、そこと比較した佐倉の印象はそれなりに強烈だった。さびれた田舎町といった風情だった。
 佐倉第一小学校という学校に通うことになった。初めて登校した時に、担任の女の先生からクラスの皆に紹介された。
「みなさん、鬼貫進一郎君です。鬼貫君は東京の学校でも成績優秀でした。みなさんも鬼貫君に負けないよう勉強に励まなければなりませんよ」、そうその女の先生は言って、小生をさも秀才のように取り扱ってくれたのだった。
 だがそれがよくなかったようだ。小生はクラスの悪童たちの気分を害したらしく、さっそく手厳しい挨拶を受ける羽目になった。
 授業が終わって下校する時間がやってくると、小生はまだ友達もいないこととて、ひとりで校門を出ようとしていた。すると背後から声をかけるものがいる。振り返ってみると、六七人の悪童らしきものらが小生に向かってなにやら叫んでいる。その叫び声にはこの地方独特のなまりもあってよく聞き取れなかったが、どうやら小生が女の先生から秀才として紹介されたことが気に入らないらしいことは伝わってきた。
「おめーなんかにはぜってえ負けねーぞ」と叫んでいるように聞こえた。
 小生はなにか言い返そうと思ったが、言葉が出てこなかった。この悪童たちは、どうもまともに相手にできるような連中とは思えなかったからだと思う。だからじっと睨み返していた。そんな小生の振舞いが、悪童たちには大胆不適な挑戦と映ったのかもしれない、いきなり興奮したと思うや、地面の石ころを手に手につかんで小生に投げつけてきた。突然のことなので小生は十分な構えができず、投げられた石ころの一つが股間にあたった。小生は激痛を覚えたが、ここで見苦しいところを見せると相手をつけあがらせるだけだと思い、痛みをこらえながら悪童どもを睨み返した。すると悪童どもは、こちらへ立ち向って来るでもなく、なんとなく散り散りにいなくなってしまった。
 痛みを押さえながらたたずさんでいると、一人の少年が近づいてきて、
「おい、大丈夫かあ?」と聞いた。
 それが小出英策だった。正直なところ、大丈夫どころではなかった。石ころは睾丸に命中し、玉が袋から飛び出たのではないかと心配になるほどすさまじい痛みに襲われた。額からは脂汗がにじみ出てくるありさまだ。そんな小生の顔をのぞき込むようにして、英策は言った。
「あいつらにはたいしたわけなんかないんだ。ただ初めて会った人間には、いつもあんな態度をとるんだ。田舎もんだからな。そのうちこんなことは忘れてしまって、仲良くなれるさ」
 実際英策の言うとおり小生はこの悪童どもとすっかり仲良くなることができた。
 ともあれこの時に石ころが睾丸に命中したことは、小生にとって大きな影響をもたらした。勝海舟は少年の頃に犬に睾丸をかまれたせいで、どういうわけか性欲が昂進し、精力絶倫になったという話を誰かから聞いたことがあるが、どうもそれと同じことが小生の身にも起こったようなのだ。小生はそれ以来、早熟な子どもとして性欲に敏感になり、精通も早かったし、ちょっとしたことで男根が勃起することに悩むようになった。一度などは、数学のテストの最中にいきなり男根が勃起し、そのまま射精して下着を汚し、大いに困ったことがあったくらいである。
 英策とは中学校・高校も一緒になった。また互いの家を行き来して兄弟のようにつきあった。英策とのもっともみずみずしい思い出は、中学三年生の卒業休みを利用して、日光へ二泊のハイキングをしたことだった。二人で同じ会社でアルバイトをし、それで稼いだ金で行った。少年としては立派な心がけと言うべきだったと我ながら思っている。我々は稼いだ金で旅支度を調え、上野から夜行列車に乗って日光駅まで行き、そこから大冶川の渓流沿いに中禅寺湖まで歩いた。一日目は寂光の滝の傍らで自炊した。飯盒で飯を炊き、缶詰をおかずにして食った。デザートに食った缶詰の焼きリンゴが滅茶苦茶にうまかったのを覚えている。以来小生は焼きリンゴがすっかり好物になったのだが、どういうわけか最近では焼きリンゴの缶詰を見かけることがなくなってさびしい思いをしている。
 二日目は二荒山神社の境内で寝た。ちょうど盆踊りの催されている時期で、境内には盆踊り用の大きな櫓が立てられていた。我々はその櫓の舞台の下に潜り込んで寝た。ところが雨が降ってきて、舞台の下まで入り込んで来るので、どこか濡れずにすむところはないかと探したところ、山門の一角に藁を積んであるのが見えた。これ幸いにとその藁の中に潜りこんで寝た次第だった。その前に、草むらで夕餉の食休みをしていたところ、アメリカ人の少女が我々のいる場所まで走ってきて、我々の目の前でパンツをずり下ろし、その場にうずくまって小便をたれた。すでに性に目覚めていた小生には、そのさまがきわめてエロチックに映ったものだったが、当の少女にもまた連れの英策にもその様子はなかった。それどころか少女は用を足すと、小生に向かって
「グーッド!」と言ったのだった。
 大学は別々だった。互いに大学を卒業すると、小生は東京に就職し、英策は地元佐倉の市役所に奉職した。先祖代々佐倉藩に仕えてきた小出家の人間としては、佐倉の市役所は今様藩庁のようなものだったのだ。実際佐倉市長に堀田家の直流の子孫がなったりして、佐倉には歴史の連続性を強く感じさせるところがあるのだ。
 英策はある時期から佐倉の郷土史を研究するようになった。これも佐倉市に奉職した縁からだろうと思う。佐倉は地味な土地柄だが、結構ユニークな人材を多く出している。よく知られた例としては、明治初期の啓蒙思想家西村茂樹とか、欧米使節団に従ってアメリカに留学し後に津田塾を起こした津田梅子とか、画家の浅井忠などである。そのなかで依田学海は、いままではほとんど知られることがなかったが、英策によればなかなかユニークな人物で、十分研究に値すると言うのだ。
「依田学海というのは実に面白い人物だ。この男には、佐倉というか房総人気質の典型を見ることができるし、またこの男の目を通すと、明治維新が今までの常識的な見方とは違って見えてくる。つまり、一個の人間としても、歴史上の一サンプルとしても、つきない興味を味わせてくれる。自分はこの人物をとことん研究してみるつもりだ。お前も研究してみるがいい、きっと面白いから」
 そう英策は言って、依田学海についてのいろいろと面白い話を聞かせてくれもした。
 これが小生が依田学海に興味を覚え、その果てに彼についての史伝のようなものを書いてみようと決意するに至るきっかけだったのである





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