河鍋暁斎の世界

| コメント(0)
kawa00.jpg

河鍋暁斎(1831-1889)は、幕末から明治初期にかけて活躍した画家だ。しかし長い間その業績が正当に評価されることはなく、近年になってやっとその存在が認められるようになった。しかも日本の国内からではなく、海外での評価の高さがきっかけとなった。なぜそうなのか。海外の名声が国内での評価につながった例は、伊藤若冲はじめほかにもあるが、暁斎の場合には、国内と海外との落差が誰よりも大きかったのではないか。

その最大の理由は、暁斎の画業が、自分自身狂画とか戯画とか言っているように、エンタテイメントの要素が強すぎて、芸術としてはとるに足らないとの偏見を持たれたからである。明治以降の日本画の評価の歴史は、徳川時代以前のものについては、文人画を中心にしてせいぜい北斎や歌麿などの浮世絵まで、明治以降は画壇の主流となったいわゆる日本画が尊ばれ、暁斎の戯画の如きは到底芸術とは見なされなかったのである。

その暁斎だが、明治維新の年にはすでに37歳になっており、画家として一定の名声を得ていた。というのも暁斎は、狩野派の末席につらなって伝統的な絵画も描いていたのである。その一方、浮世絵から学んだ戯画を描いて民衆の喝さいを得ていた。彼は天性としてエンタテイメントの素質があり、それを戯画という形で表現したのである。それが暁斎に災いをもたらしたこともあった。明治三年に暁斎は風俗紊乱の咎で逮捕拘禁されるのであるが、それ以来狂斎という画号を暁斎に改めたのであった。読みはいづれも「きょうさい」である。

幕末から戯画という形で世の中を風刺するような絵を描いていた暁斎は、明治維新以降は風刺を一層きかせた愉快な絵を描くようになる。その絵の中には、ストレートに世事を風刺したもののほかに、動物や怪物、果ては美人にことよせて世の中を風刺するものが多かった。生涯をかけて世の中を風刺する絵を描き続けた画家は、日本では珍しい。海外でも、ドーミエなど少数の例があるばかりである。そういう意味で暁斎は、世界の絵画史上でもユニークな存在だといえる。

その暁斎の絵は、実にバラエティ豊かである。持ち味の戯画風の風刺画の他に、肉筆による本格的な日本画もある。日本画のほうは、子どものころから狩野派に入門し、十九歳の時にはすでに一人立ちするほどであった。狩野派に入門する前には、国芳の薫陶を受けている。彼の戯画風の絵は、国芳風の浮世絵から多大な影響を受けている。いづれにしても暁斎の絵は、デッサンがしっかりしており、対象を鋭くキャッチする写生を基本としている。

写生のコツについて暁斎は、晩年の弟子である建築家のジョサイア・コンドルに伝授している。写生というものは、目の前のものをそのまま写し取るのではない。それを熟視し、その像を心の目に焼き付ける、その上で焼きつけた像を紙の上に再現する。こうして描きだした像は、いつでもどこでも再現できるというのである。

そんなわけで狂斎は即興画が得意だった。それを席画と称して、求められるままにいつでもどこでも描き、時には酔いながら描くこともあった。暁斎の絵が風格に欠けると非難されたことには、そのような制作態度が影響したかもしれない。

死ぬ一年前に暁斎は、岡倉天心から美術学校の教授として招聘されたらしい。その計画は実現しなかったが、もし暁斎が美術学校の教授になっていたら、日本画の歴史はあるいは別の道を歩んだかもしれない。

ここでは暁斎のおびただしい絵の中から、戯画、動物画、妖怪画、美人画といったジャンルごとに、代表的な作品を鑑賞したい。






コメントする

アーカイブ