日本の黒い夏 冤罪:熊井啓

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熊井啓の2001年公開の映画「日本の黒い夏 冤罪」は、1994年の夏に起きた「松本サリン事件」を描いた作品だ。副タイトルにあるように、冤罪がテーマになっている。この事件は当時、事件の第一通報者が誤って被疑者扱いされ、その後オウム真理教の起こした犯罪だということが判明したのであるが、何故第一通報者が被疑者扱いされ、そのことによって言うにいわれぬ苦痛をこうむったか、そのことを考えさせる内容となっている。

冤罪をとりあげた映画といえば、熊井自身1964年に「帝銀事件死刑囚」を作っているが、やはり今井正の作品「真昼の暗黒」が日本映画史上の古典的な作品と言える。今井は「真昼の暗黒」を通じて、日本の警察のずさんきわまりない、しかも非人道的な捜査手法を批判したのであるが、熊井は警察の捜査手法の問題に加え、日本のマスメディアの無責任さを批判している。この冤罪事件は、警察はもとよりマスメディアのほうが印象的な世論操作を通じて、罪もない人があたかも真の犯人ように思いこませた。熊井はそこに深刻な問題がある、というようなスタンスをとっている。

熊井はこの映画の原案について、松本の高校生が作成した自主放送作品からヒントを得た。高校生らしく素朴な正義感から事件の不条理さを追求したものだったらしい。映画の中にもその高校生たちが出てきて、地元の放送局のスタッフに取材する姿が映し出される。この映画は、その高校生と放送局のスタッフのやりとりを縦軸にして進んでいくのである。

彼らのやりとりを通じて事件の全貌が次第に明らかにされるのだが、その過程で警察やマスメディアによる理不尽な犯人決めつけやら、それにともなう被疑者とその家族の苦悩が取り上げられる。警察側の登場人物にはいかがわしい人間もいるが、捜査の中心となる警部という人がなんとなく人間性を感じさせるので、幾分かは救いがあるように伝わってくる。それに比べるとマスメディアのほうは、ろくな取材もせずに警察の情報をそのまま垂れ流し、あまつさえ被疑者が本当の犯人であるかのように世論操作するようなどうしようもない連中として描かれている。そういう場面を見せられると、日本の犯罪捜査をめぐるうす寒い状況を感じさせられもする。

映画は、真犯人がオウム真理教団であることが判明した時点で、一応クライマックスを迎える。その後に後日談のような形で被疑者の嫌疑が晴らされる様子や、警察の責任者である警部が自分の過ちを認める場面が映されるのであるが、それがどうも前半の部分とあまりよくつながらず、なくもがなの印象さえ与える。その中で、被疑者がそれまでのことをすべて水に流して、自分を迫害した人々を許すという場面が出てくるのだが、それによってこの映画は、かなり迫力を減じているように思える。それはおそらく実際にあったことを再現したのだろうが、それを再現して映画の中に取り入れるにしても、もうすこしましな演出の仕方があったのではないかと思わせられるところだ。






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