エイリアン(Alien):異星人のSFホラー映画

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1979年のアメリカ映画「エイリアン(Alien)」は、SFホラー映画の古典的作品だ。太陽系以外の惑星で遭遇した生物体が人間の宇宙船に乗りこんで、船員たちを次々と襲撃して殺すというもので、不気味な生物に襲われる人間の恐怖を描いている。この生物が人間とは全く異なった形状・性質を持っているというのがミソだ。太陽系以外の生物で人間と対抗できるようなものは、人間に似たいわゆる異星人あるいは宇宙人として表象されるのがそれまでの常道だったが、この映画の中の異星生物は、卵生で恐竜のような形状をしているにかかわらず、人間を恐怖支配するほどの知性を持っているとされている。人間が恐竜に狩りされるといったイメージを喚起するわけで、そこが見ているものになんともいえない恐怖心をもたらすのである。

七人のクルーを乗せた宇宙船が、太陽系外の惑星に立ち寄る。その惑星から不思議な暗号電波が発信されていたからだ。三人が派遣されてその惑星におり立ち、電波の放出源を追ううちに、ほかの天体から来たと思われる宇宙船の残骸を発見する。その内部を調査しているうち、クルーの一人が卵のようなものを見つける。その卵はやがて割れ、そのなかからタコのようなものが飛び出てきてそのクルーの顔に吸い付く。これこそが異星外生物の化け物エイリアンの嬰児だったのだ。

三人のクルーは宇宙船に戻ってくる。その際に女性クルーのリプリーが安易に船内に入れることに反対するが、科学担当のアッシュが勝手な判断で入れてしまう。船内では顔に張り付いた化け物を剥がそうとするが、なかなか剥がれない。剥がそうとすればクルーの顔の皮膚まで剥がれそうだからだ。だがやがてその化け物は自然に死んでしまったと見えて、クルーは元気を取り戻す。しかしそれはつかの間のことだった。やがてそのクルーの体内から、彼の腹を破るようにして別の形の化け物が飛び出て来たのだ。その化け物こそは卵が成長したものだった。

六人のクルーはその化け物を捕まえて殺そうとするが、化け物はなかなか捕まらない。そうしているうちに化け物は成長して、恐竜を思わせるような怪物になる。こうなってはなまじなことでは退治することはできない。かえって人間のほうが襲われて次々と殺されてしまうのだ。

この怪物との戦いの経過で、科学担当のアッシュが仲間のクルーより怪物を守ろうとする行動をとる。不審に思ったリプリーが問い詰めると、アッシュは本性を現わしてリプリーに襲い掛かる。そのアッシュを皆で叩きのめすと、アッシュはバラバラに壊れてしまう。彼は人間ではなくロボットだったのだ。しかもクルーの命よりも異星生物を地球に持ち帰ることを優先するようにプログラムされていた。

こうして内部から裏切り者を出し、クルーたちの怪物との戦いは絶望的な様相を呈する。怪物を殺せないと悟ったクルーの生き残り三人は、小型宇宙船に乗り換えて脱出しようと図る。しかしその彼らに襲い掛かった怪物が更に二人を殺し、最期にリプリーだけが取り残されてしまう。リプリーは自分だけ小型船で脱出し、本体の宇宙船を爆破しようとする。そしていざ小型船に乗りこむに先立って、宇宙船の中で飼っていた猫を探し出して一緒に連れて行く。

これが命取りになりかねない行為だった。その猫の体中に乗り移っていた怪物が、小型船の中で生まれかわり、リプリーに襲い掛かるのだ。狭い船内ではまともに立ち向かうわけにはいかない。そこでリプリーは相手のスキをついてダクトに追い込み、そこから船外に放出しようとする。その試みは成功して怪物は宇宙の彼方へと放出される。かくして七人のクルーのうちただ一人生き残ったリプリーは、数か月の旅を続けて地球へと戻っていく、というわけである。

とにかく全編を通じてハラハラドキドキの連続で、見ている者としては息を継ぐ間もない。見終わったあともしばらくは放心したような状態に陥るのだが、よくよく反省してみると、この映画には考えさせる点がいくつもある。

まず、クルーの中に紛れ込んだロボットのアッシュが、仲間の命よりも怪物を地球に持ち帰ることを優先するようプログラムされていたということだ。つまりクルーたちは会社のビジネスに利用され、あたかも部品のように取り換え可能のものとして扱われているのである。そこに人は資本主義による宇宙開発の非人間性を読み取ることができるかもしれない。

また黒人クルーがいつも待遇の点で愚痴をこぼしているが、これは黒人蔑視の現れと見られないでもない。黒人はいつどこでも、自分の使命よりも金のことばかり主張する卑劣な存在だと見られているわけだ。

また、リプリーが猫を小型船に持ち込むのにこだわるのも意味深長だ。アッシュは、この怪物が完全生物だと言い、そのひとつの証拠としてつまらぬ感情に左右されないことを挙げているが、リプリーはその感情におぼれたために自ら災難を呼び寄せたということになる。猫を気にせずさっさと脱出していたら無事にすんだろうにというわけだが、しかしそこに人間の人間らしさがあるのだと主張しているようにも見える。

そんなわけで色々考えさせられる映画である。ともあれこの映画は大評判を呼び、続編が次々と作られた。この映画を監督したリドリー・スコットも続編を二つ作っている。





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