堀井恒右衛門(魁題百撰相):月岡芳年の血みどろ絵

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堀井恒右衛門とは鳥居強右衛門のこと。戦国時代の武将である。長篠の戦いの際、強右衛門は徳川方奥平氏の武将として長篠城に籠城していたが、武田軍に囲まれて今にも城が落ちようとするとき、城を抜け出して家康に援軍を求めに行った。その帰りに武田側にとらえられ、援軍は来ないと伝えよと強要されたが、強右衛門は城に向かって援軍はすぐにも来るからそれまで持ちこたえよと叫んだ。

それを見た武田側は、怒って強右衛門を殺した。単に斬ったと言う説もあるが、磔にして見せしめにしたという説もある。

芳年は強右衛門磔説に基づき、強右衛門を恒右衛門としたうえで、この磔図を描いた。

台に張り付けられた恒右衛門に槍先が突き付けられる。腹のあたりから血が流れているのは、そこを刺されたからだろうが、槍の穂先からは血が垂れていない。ちなみにいうと、当時の磔刑は、槍を腹から差し込んで、ぐいと上部に向かって捩じ上げるという方法がとられていた。

(明治元年<1868> 大判)






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