安部晋三は何故核兵器に固執するのか

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広島で行われた原爆平和記念式典に、今年も安倍晋三総理は慣例にしたがって出席し、演説した。その演説には、広島の人々を始め核兵器の廃絶を願う人々が、安倍晋三が総理大臣として核兵器のない世界の創出への決意と、その具体的な意思表示として、122か国が賛成した核兵器禁止条約へ参加するように決意する言葉を期待したが、安倍晋三はこの条約の名も出さず、核兵器の廃絶を強く主張する言葉も言わなかった。数年前にオバマとともにこの式典に臨んだ時は、オバマと口裏をあわせるかのように、核兵器の廃絶を叫んでいたわけだから、これは大きな転換というべきだろう。

もっとも、安倍晋三本人としては、核兵器を廃絶することは、本音の部分では考えていないのであって、今回の姿勢のほうが彼本来のものだと言いたいかもしれない。オバマが広島にきた時には、オバマが核兵器のない世界と言っているので、自分もアメリカの従僕としての礼儀を尽してオバマに口裏を合わせなければならなかったが、大統領がトランプに変った今は、そんなことに神経を使う必要もなくなったので、自分本来のスタンスをなるべく取りたいということなのだろう。

安部晋三が核兵器に固執するのは、アメリカの核の傘のお世話になりながら、その核を廃絶しようと主張するのは、アメリカに対して失礼だという遠慮があるのだろう。それにしても、安倍晋三は核の抑止力は今でも有効なのであり、その抑止力に日本は今後も依存していく必要があると考えているのだろうか。本音では、できれば日本自ら核武装するのが理想だと思い、だからこそ原発の再稼働にも、核技術の保存と核兵器開発のための能力の維持という点で、強いこだわりを見せているのだろうと思う。こうした考え方は、安倍にかぎらず、読売を始め保守勢力の間で共有されているところだ。

ところで日本は核兵器による攻撃に実際にさらされた唯一の国であり、その立場から、歴代の政府を始め様々なレベルで核兵器廃絶を叫んできた歴史がある。安部晋三のこの問題への拘わり方は、そうした歴史を否定し、核兵器の有用性を認め、核保有国が自衛のために核兵器を使用することを容認するものだとの批判を浴びるようになっている。

安部晋三が核の抑止力というときには、当然アメリカが核兵器を使用する事態を容認するということが含まれている。核兵器は張り子のトラではないのだから、それが現実の抑止力を失わないためには、使われることを前提にしなければならない。

しかし、アメリカが核兵器を、自国と同盟国の防衛の為に使うことを容認すると言うことは、アメリカの敵がそれを使うことをも容認することを意味する。つまり、世界が破滅するのも致し方がないといった開き直りがそこには含まれている。そこまで極端なことを考えなくとも、今や世界中には多くの核兵器がストックされており、それがいついかなる事情で使われないとも限らない。

ちなみに今現在、核兵器を保有している国は九か国で、内訳は、ロシア6850発、アメリカ6450発、フランス300発、中国280発、イギリス215発、パキスタン140-150発、インド130-140発、イスラエル80発、北朝鮮10-20発である。このうちのどこかの国、たとえばイスラエルが敵国であるイランとかに核兵器を使ったら、どういうことになるのか。いまの安倍晋三のロジックでは、イスラエルの核攻撃を、それ自体としては批判することは出来ないだろう。イスラエルにも自衛の権利があるのはアメリカと同じだし、その自衛のために核兵器を使うことは安倍晋三の理窟のうえでは容認されることになるからだ。

そのイランにしてからが、自分でも核兵器を持とうという意思を隠していない。世界的なレベルで、核廃絶の方向性がビルトインされない限り、今後とも自衛名目で核武装したいと考える国は跡をたたないだろうし、それによって核拡散が手の付けられない状態になってしまう可能性がある。安部晋三総理の行動は、その可能性を押し広げるようなものだと言わねばならない。





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