五番町夕霧楼:田坂具隆

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田坂具隆の1963年の映画「五番町夕霧楼」は、水上勉の同名の小説を映画化したものだ。原作は丹後の貧しい樵の娘夕子が、家の貧しさを救うため京都の五番町遊廓に身売りし、そこで好色な老人の慰めものになる一方、幼馴染の僧侶と再会し、つかの間の愛を育んだ後に、僧が寺に放火したうえで自殺したことを苦慮し、あたら若い命を自ら断つという内容だ。その若僧の寺の放火は、金閣寺炎上をイメージしている。金閣寺炎上をテーマにした小説とそれを映画化したものとして三島の金閣寺及び市川崑の「炎上」があるが、そちらは放火の原因を美への嫉妬などと言って、いまひとつ曖昧な所があったが、こちらは男女の恋の行き詰まりが背景にあったということにしている。果たしてどちらが事実なのか、第三者にはわからない。

映画は、前半では丹後の貧しい家の娘夕子(佐久間良子)が、たまたま丹後を訪れていた遊廓の女将(木暮美千代)に、父親によって売り飛ばされ、遊女にされるところを描き、後半で夕子と彼女の幼馴染正順が遊廓で逢瀬を重ねたあとで、二人がともに自殺するところを描く。

前半で出て来る丹後の風景は、外目には島のように見えるが、与謝半島だということである。夕子らはそこから船に乗って近くの鉄道駅まで行き、そこから多くのトンネルをくぐりぬけて京都へ出、西陣の遊廓街五番町の夕霧楼に到着する。夕霧楼の女将はなかなか人情味のある女で、なにかと夕子に目をかけてくれる。しかし彼女を買った金を自分で出すわけではなく、客にその金を出させ、その一部を上前としてはねるしたたかさを持っている。これは彼女だけのやり方ではなく、当時の京都の遊廓のしきたりのようなものだったのだろう。いずれにせよ吉原などとは違い、女は遊廓によって買われたわけではないので、かなりの行動の自由がある。その自由を逆手にとって、夕子は自分の思い人を遊郭に引き入れ、束の間の逢瀬を楽しむのである。

そんな夕子に、彼女を贔屓にしている好色老人が嫉妬をして、正順の寺の住職に弟子の不品行を密告する。怒った住職は正順を事実上軟禁扱いにしてしまう。こうして逢えなくなった二人は、互いに相手を慕いあうが、そのうち夕子のほうは結核で入院してしまい、正順のほうは自分の境遇にほとほと絶望する。その挙句自分の将来を悲観して寺に放火し、逮捕されて取り調べを受けている最中に、警官の眼を盗んで自殺してしまうのだ。

そのことを新聞で知った夕子は、これも自分の前途をはかなみ、故郷に戻って、思い出深い場所で自殺してしまう。

と言うわけでこの映画は、男女の不幸な愛を主なテーマとしている。その不幸な愛が、一つには遊廓を舞台に展開されていること、もう一つには金閣寺放火と関連づけられていること、この二点に特徴がある。それはともかく、佐久間良子はこの映画をばねにして一躍人気女優になった。彼女はこの時二十二歳であったが、まだ十代のういういしさを感じさせる一方、自分の愛のためにはなにも恐れないと言ったふてぶてしさも感じさせるなど、なかなか堂に入った演技ぶりを見せてくれる。

木暮美千代もなかなか良い。彼女はその派手な顔つきに関わらず繊細なところも感じさせ、いじらしい女という雰囲気を演じるのがうまい。その演技は溝口の「祇園囃子」でも発揮されていたが、この映画でも十分雰囲気が出ている。





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