鴻上尚史「不死身の特攻兵」

| コメント(0)
鴻上尚史の著作「不死身の特攻兵」は、陸軍最初の特攻部隊に選ばれ、九回も特攻出撃してそのたびに生きて帰って来た兵士をテーマにしたものである。著者の鴻上尚史はこの本を通じて、特攻攻撃に直面した日本兵の心理をきめこまかく描くとともに、かれらに死の特攻を強要した上官たち、それは日本軍そのものといってもよいが、その日本軍の責任を鋭く追及している。

今の日本ではとかく、特攻をおしなべて美化する傾向があると著者は言う。それは特高兵士の英雄的な行為を称揚するあまり、特攻を命じた側の責任をもうやむやにして、十把一絡げで特攻を美化することから来ていると著者は考える。そうした傾向は、いわゆる一億総懺悔の言説にもあらわれていた。一億総懺悔とは、戦争を命じた者も命じられたものも一緒くたにして、日本人すべてに戦争責任があるという議論だが、それは真の戦争責任をあいまいにするものだ。特攻についても同じことで、特攻を称揚するあまり、特攻を命じられたものと命じたものとを一緒くたにして、命じたものまで称揚するようなことがあってはならない、と著者は考えるのである。

特攻兵のほとんどは死んだが、この本が取り上げている佐々木友次をはじめ、生き残ったものは自分の特攻経験をなかなか語ろうとしない。それは、自分が語ることによって、特攻についての世間の常識が覆されることを世間が許さないことを、彼らが知っているからだ。佐々木友次についていえば、自分は命令されて特攻に出撃したのであって、かならずしも自発的に行ったのではないとつねづね思っていた。しかしその思いを正直に語ると、世間から猛反撃を受けた。世間は、特攻というものはおしなべて、兵士の無私の自発的精神に支えられていたのであって、決して強制されて行ったのではないと信じたがっている。その気持ちに逆らうようなことを言うと、激しく非難される。その非難が唇寒くて積極的に語らないようになったのだと著者は考えるのである。

しかし、佐々木に対して猛然と非難を浴びせるのは、特攻とは全く縁のなかった人たちだ。かれらは特攻の当事者でないにもかかわらず、特高について判断する資格があると主張して、自分たちの憶説に反した言説に対しては、佐々木のように当事者の言葉であっても是認しない。当事者の言葉よりも、自分たちの思い込みのほうが大事なのだ。そういう構図は、特高の問題に限らず、あらゆる場面で見られる。それが日本という国の姿だ。

しかしそれではいけない。それでは特攻という過ちを今後再び避けることはできない。今後そういう過ちを避けて、人間性を尊重するためには、事実を明らかにして広めていく必要がある。その事実の解明の中には、軍指導者の責任に触れるものもあるだろうし、その限りで抵抗を感ずるむきもあるだろうが、国民として成熟していくためにはそれを避けることはできない。

著者鴻上尚史はこういう問題意識に導かれながら、この本を書いていることがひしひしと伝わって来る。筆致は穏やかだけれども、問題意識はかなりの熱さを感じさせる本だ。





コメントする

アーカイブ