セヴンティーン:大江健三郎

| コメント(0)
大江健三郎の小説「セヴンティーン」は1960年に起きた右翼少年によるテロ事件に触発されて書いたものだ。このテロ事件は十七歳の少年山口二也が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺したというもので、その刺殺現場の様子が、当時浅沼の日比谷公会堂での演説を中継していたラヂオ番組で生々しく放送された。スケールは違うが、9.11の航空機テロの様子がテレビで実況中継されたときと同じようなショックを当時の日本人に与えたものだ。

大江はこの事件に触発されてこの小悦を書いたわけだが、その触発がどのような内容のものであったか。それは小説を読んでもわからない。何故なら小説は、山口をモデルにした一少年の独白という形をとっており、そこには第三者的なコメントは一切ないからだ。あるのは少年の内心の表出だけである。少年が自分自身の内心の動きを飾らずに語っている。その動きは少年らしくあちこち揺らいでいる。その揺らぎのなかから自ずから少年の心理的な傾向は浮かび出てくるが、その傾向は確固としたものではない。しかもこの小説はテロの現場を描く手前で終わっている。だから、小説の中のこの少年が、浅沼刺殺テロの犯人だとは、あらかじめ事情を知らされた人間以外にはわからない。つまり当事者以外にはわからない。

だが、この小説が浅沼事件の容疑者を主人公にしたものだということは、すぐにわかってしまった。一番最初にそれがわかったのは、当時の右翼の連中だったようだ。彼らはこの小説に敏感に反応した。この小説そのものに敏感に反応したほか、続編の「政治少年死す」を大江が書いた時には、大江に対して露骨に威嚇する姿勢を見せた。そんなわけで大江は「政治少年死す」を封印してしまった。これを大江の自己検閲と言って、大江の政治的敗北のように語る者もいる。大江がどんなつもりでそういうことをしたのか、よくわからないところはある。

この小説は語り手による一人称の語りくちをとっている。一人称形式の小説としてはもっとも成功したものと言えるのではないか。筆者はこれを谷崎の「卍」と並んで、日本文学が生んだ一人称小説の双璧だと考えている。「卍」の場合には、関西弁の女言葉による語りがあやしい雰囲気を醸し出しているが、こちらは十七歳の少年による自意識の吐露である。少年の自意識であるから、まだなんとも形が定まっていない。心が形成途上だからだ。だが肉体は十分大人になっている。大人であるから性欲も旺盛だ。その旺盛な性欲を、心が制御できない。心が制御できないから、性欲はそのままほとばしらざるをえない。そこで少年は内部からマグマノのように噴出してくる精液をあたりかまわず放出することで、心の均衡を保とうとするのだ。

その精液の放出を大江は自涜と言っている。当時つまり1960年前後には、オナニーとかマスターベーションとかいった言葉がまだ一般的にはなっていなかったのだろう。それにしても十七歳の少年が自涜という言葉を使うのは、現在の読み手には奇異に聞こえる。いかにも作り物の言葉で、当時の少年がこんな言葉を普通に使っていたとは思われない。マスターベーションをあらわす普通の日本語としては、「せんずり」という言葉があったはずで、これはあれを「しごく」という表現同様広く使われたと思う。

要するにこの少年にとって生きるとは精液を放出することなのである。そこが右翼の連中の気に触ったのは理解できる。この小説の中には、右翼の少年がマスターベーションにうつつを抜かすことばかりが描かれているわけだから、それを読んだ人は、右翼とはマスターベーションにうつつを抜かす連中だと思うのは無理はない。しかしそれは右翼の実像とかけ離れている。右翼というものは、もっと崇高な理念に自分を捧げているのであるし、たしかに肉体を強調する傾向はあるにしても、それは精神を高める方便としてであって、肉体のもたらす快楽に耽るためではない。ところが大江のこの小説は、あたかも右翼全体が肉体的快楽の徒であるかのような書き方をしている。それは実にけしからぬことだ。そう彼らが思うには相応の理由があると見るべきかもしれない。

この小説が性欲と同じように強調しているものとして破壊願望がある。破壊願望はテロの暴力とつながる。その暴力の現れとして浅沼暗殺が行われたという風にこの小説を読める。先述のようにこの小説には浅沼殺害は触れられていないが、それを暗示するような暴力の賛美は表現されている。たとえば次のような記述だ。

「赤どもを踏みにじれ、打ち倒せ、刺し殺せ、絞め殺せ、焼き殺せ! おれは勇敢に戦い、学生どもに向かって憎悪の棍棒をふるい、女どものかたまりにむかって釘をうちつけた敵意の木刀をたたきつけ、踏みにじり追い払った。おれは何度も逮捕され、釈放されるとすぐまたデモ隊に攻撃を繰り返しそしてまた逮捕され釈放された。おれは十万の<左>どもに立ち向かう二十人の皇道派青年グループの最も勇敢で最も狂暴な、最も右寄りのセヴンティーンだった」

たしかに、敵を物理的に粉砕できるのは破壊をもたらす暴力であって、精液の放出を伴なう性欲ではない。その意味では、右翼の本質が性欲の解放にあるとするのは当たっていない指摘かもしれない。右翼は力を頼りに生きているのであって、精液の放出は、ありあまる力の表現と受け止めるべきなのだ。力こそ右翼の本質であり、性欲はその一つの顕現だ、というわけであろう。

とはいっても、性的なエネルギーに満ち溢れていることは、単に性欲のもたらす現象であることにとどまらない。性的エネルギーの発露は男にとっては男根の勃起という形をとるが、それは単に性欲が更新していることの現れであるにとどまらず、力が充溢していることの表れでもある。それ故この少年は自分の男根を勃起させながら次のように言うのだ。

「おれはものすごく勃起した。おれこそが新妻の純潔な膣壁をつき破る灼熱した鉄串のような男根を(逆木原国彦のいったとおり男根を)もつ男だった。おれは一生勃起しつづけるだろう、十七歳の誕生日に惨めな涙にまみれてその奇跡をねがったとおり、おれは一生、オルガズムだろう、おれの体、おれの心、それら全体も勃起しつづけるだろう」

少年を感化した逆木原国彦とは全日本愛国党の赤尾敏がモデルだ。小説のなかで逆木原国彦は少年に「七生報国 天皇陛下万歳」という言葉を贈ることになっているが、これは現実の赤尾敏が山口二也に贈った言葉だ。少年はその右翼の大物に感化されたことになっているが、更に思想的には谷口雅春の影響を受けたともいっている。谷口は「成長の家」の教祖で、日本の右翼運動に深い影響を与えた人物として知られる。現在の日本でも、日本会議などを通じて右翼運動に大きな影響を及ぼしている。大江はすでに1960年頃に成長の家の影響度にそれなりの関心を払っていたわけである。

小説は次のような文章で終わる。樺美智子さんがデモの最中に死んだ事件に関連して、少年に叫ばしている場面だ。

「小雨のふりそぼつ夜、女子学生が死んだ噂が混乱の大群衆を一瞬静寂に戻し、ぐっしょり雨に濡れて深いと悲しみと疲労とに打ちひしがれた学生が泣きながら黙祷していた時、おれは強姦者のオルガズムを感じ、黄金の幻影にみな殺しを誓う、唯一人の至福のセヴンティーンだった」

かなり両義性を感じさせる文章だ。ともあれ、この「セヴンティーン」を通じて、大江は作家として飛躍したのだと言える。





コメントする

アーカイブ