大江健三郎初期の短編小説

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大江健三郎は、処女作の「奇妙な仕事」以来「個人的な体験」で長編小説を書くようになるまでの間、専ら短編小説を書き続けたが、それは彼にとっては長い助走のような意味を持ったようだ。彼はこれらの短編小説で、自分の文学的な野心を試した後で、その野心を長編小説の形で展開して見せるつもりだったように思われる。もっともその野心の方向性は、それこそ大江自身の個人的な体験を通じて大分異なったものになったのではあったが。

大江が初期の短編小説群で展開して見せたものは、死、暴力、セックスといったもので、大江はそれらのテーマを政治的な意識を絡み合わせながら描いた。そして「セヴンティーン」では、その政治的な意識があからさまな形で示される。大江は死や暴力やセックスを描きながらも、きわめて政治的な意識を前面に押し出した作家だと言える。大江においては、政治と文学とは切り離しえないものなのだ。

大江健三郎がセックスはともかく死や暴力に拘ったのは、やはり時代の影響だったと思う。戦時中の大江はまだ少年で、しかも四国の山のなかで育ったのだったが、多感な少年には戦争の意味がそれなりにわかったようだ。彼は彼なりに戦争の意味を解釈し、それを文学的な形で表現したいという意思を強く持ったのではないか。その意思が彼を早熟な作家として世の中へ押し出したのだと思う。

処女作の「奇妙な仕事」は、死をテーマにしているが、その死とは人間の死ではなく犬の死である。大江が犬の死を描くことから始めたというのは興味深い。いきなり人間の死を描くのではなく、犬の死を描くことから始めたのは、そうすることで死を突き放した目で視られ、死について乾いた観点から書くことができると考えたからではないか。彼はそこで死について一応実験的な試みを行ったうえで、改めて人間の死について描く(死者の驕り)。もっともその死とは、死なれることとしての死ではなく、死なれたこととしての死、つまり死んだ人間の死体を描くことであったわけだが。

大江にとって死とは外部から暴力的にもたらされるものであった。犬たちは犬とは別の生き物によって暴力的に殺されるのであるし、「死者の驕り」の中の死者たちも自分の意志に反して死んだということになっている。もっとも自分の意志にもとづいて死ぬということはありえないかもしれないが、これらの死者たちもいわば暴力的な死を強いられたといってよい。

大江にとって自分たちの死をもたらす外部の力とはとりあえずは米軍だった。その米軍兵士を特権的なテーマにした作品が「飼育」である。この小説の中で大江は黒人を米兵の代表として登場させ、その黒人兵に向けられた日本人の暴力を描いたが、なぜ日本人が暴力を振るわれる側ではなく、暴力を振るう側として位置付けられているのか。そこに大江なりの屈折した米軍感があったものと思われる。

米軍への屈折した見方は、「人間の羊」以下何篇かの作品で披露されている。それらの作品において大江は、支配者としての米軍と被支配者としての日本人の関係を、かなりねちねちとしたタッチで描いている。それらを通じて浮かび上がってくるのは、暴力を振るう米軍への怒りよりも、その暴力を卑屈に甘受する日本人のほうへ向けられていることである。「不意の唖」のなかで、村人たちが自分たちを支配している米兵ではなく、米兵のために通訳を務める日本人に怒りを向けるところを描いているのは、そうした屈折した感情の現れであろう。

大江は、日本人の米兵に対する卑屈さにかなりこだわっていて、色々な作品のなかでくりかえし取り上げている。「見る前に跳べ」という作品は、そうした卑屈さを象徴的な言葉で語ったものである。この小説の中で日本人は、自分の目の前のことがらにいつもおじけづいていて、跳ぶことのできないいくじなしとして描かれている。

大江がセックスに拘ったのは、それが死とは正反対のものでありながら、やはり暴力の匂いがするからだろう。彼の初期の短編小説のなかでセックスをもっとも強く押し出しているのは「芽むしり仔撃ち」だが、この小説のなかのセックスは子どものそれである。子どものセックスであるから淫靡な雰囲気はない。それは死とは反対に生きることの喜びを鼓舞してくれるものとして現われる。だがその喜びを粉砕するのはやはり暴力なのだ。セックスが鼓舞する子どもらしい喜びは、大人たちの暴力によって無残に粉砕されるのだ。

大江が「芽むしり仔撃ち」のなかで描いたセックスが子どもらしい純真なセックスだったとすれば、「性的人間」のなかで描かれたセックスはやや倒錯した印象を与えるものである。この小説の中のセックスは同性愛という形をとるが、大江の小説には同性愛のテーマがくり返し出て来る。大江は同性愛を、異性愛と並んで人間にとって自然な性のあり方と考えているようだ。

以上の小説で描かれた死とか暴力とかセックスの陰には政治的なものへの視線がある。それはとりあえずは支配者として君臨する米軍であったり、幼い子どもたちを抑圧する大人の共同体だったりするが、それらが突き詰められると、権力というものそれ自体への批判という形をとるようになる。「セヴンティーン」は、権力へのストレートな批判とはいえず、かえって権力と一体化した右翼少年の独白という形をとっているが、この少年にそのような独白をさせるところに、権力の狡猾さがひそんでいるというような構成になっている。つまり、権力の謳歌を通じて間接的に権力を批判しているわけである。この小説がいまだに右翼から目の敵にされているのは、彼らがそこに自分たちへの揶揄を感じ取るからだろう。

こうした大江の文業に一大転機というべきものが現われるのは「空の怪物アグイー」においてである。大江はこの小説の中で、死とか暴力とかセックスとかいったものを離れて、自分のきわめて個人的な体験について語っている。その語り方に大江なりの強いこだわりがある。そのこだわりを大江は、それ以降深めていくことで、自分の文学的な地平を広げてゆくのである。「個人的な体験」以降「ピンチランナー調書」に至るまでの諸作品は、その果実というべきものである。





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