個人的な体験:モラリストとしての大江健三郎

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小説の題名にあるこの「個人的な体験」という言葉の意味を、大江は主人公バード(鳥)の口を借りて次のように説明している。「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ・・・個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞窟をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そう言う体験はあるだろう・・・ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴掘りだ」

つまり、他人とは一切かかわりのない、自分一人だけの、そういう意味では全世界から隔絶された孤立した体験、それがここで言う個人的な体験というわけである。単に字面の上では、個人的な体験というのは、必ずしも他者との関係から隔絶されたものという意味には限定されないが、ここでいう個人的な体験とは、実質的に他者との関係から切断された、自分自身だけの秘め事のようなものとして提出されているのである。

しかしこの小説の中の主人公バードが、完全に他者から切断されて生きているとは見えない。第一彼を襲った個人的な体験とは、自分の息子とのかかわりにおけるものなのだし、その点ではたしかに息子はまだまともな人間にはなっていないのだから、他者とは言えないかもしれないが、しかし無機物のような、自分にとってどうでもよい者でもない。それは可能性としてばかりではなく、実質的にも人間と言ってよい。人間というにはまだ早すぎると言うなら、他者というべき存在である。したがってこの息子との関わりにおいて生起するバードの体験は、完全に他者とのかかわりから隔絶された意味での個人的な体験ということにはならないだろう。

またバードはこの体験の穴ぼこのなかで、完全に孤立しているわけではない。すくなくとも彼を慰めてくれる存在としての女友達火見子とのかかわりがある。火見子は単にバードを慰めてくれるだけでなく、彼と運命を共にしようとまでする。その火見子とのかかわりにおいては、バードは世界から完全に隔絶しているわけではない。

というわけで、大江は主人公に、彼の体験が全く他者との関係から隔絶された孤独な体験というふうに言わせており、また当然彼にそのように考えさせているにしても、実際にはバードは他者とのかかわりにおいて生きているわけだし、また他者との関係において深く悩んでもいるのである。だからバードが自分のまきこまれている、あるいは自分自身を巻き込んでいる体験を、個人的な体験と呼び、それによって自分がこの世界で完全に孤立していると思い込んでいるのは、彼の甘えの感情がもたらすのだと言えなくもない。

大江はまた、この個人的な体験は出口のない穴ぼこのようなものだと言ったが、実際には主人公のバードは自分なりに出口を見つけている。それは彼の努力を通じてたどりついた、その意味では彼が意識的に選び取った出口ではないにしても、出口であることにはちがいない。そしてその出口は、穴ぼこにいる者の視線にとっては出口だが、彼を囲む世界のほうからみれば、彼が穴ぼこの向こう側からこちら側へやって来る入口にあたる。彼、バードは、この入口を通じて再び世界に迎えられるというわけである。

こう見るとこの小説は、ある人間の個人的な体験を語っており、それが語る者(バード)にとっては、自分だけがはまりこんだ穴ぼこ、あるいは袋小路のように見えても、実はどこかで世界とつながっていたのであり、したがってバードにはそこから出るチャンスが必然的に与えられたのだということになる。主人公の主観的な意識と、それを包み込んで存在する世界とが、主人公の意識では断絶しているように思えても、客観的にはそうではなく、主人公は世界のなかで生きていたのであり、またこれからも生き続けるだろうということを、これは意味する。

これは、主人公の味わった個人的な体験を、それがあまりにも主人公にとっては過酷であったために、主人公がそれを大袈裟に捉えたのだと見る事ができる。つまり主人公のバードはこう言うことで、自分の体験の過酷さを自分自身に向かって愚痴り、また他人に向かっても安っぽい同情を拒否しているのだと見ることができる。そういう感情は人間がとかく抱きがちなものだ。

自分の体験があまりにも過酷であるために、それを他人と共有できないと感じることは人間として自然な感情だ。人間によってはその過酷さにおしひしがれて、二度と立ち上がれない者もいるだろうし、なんとかその過酷さに耐えて、人間として生き続ける道に戻るものもいるだろう。この小説の主人公は後のほうを選んだわけだ。というのも、彼が人間らしく生きようと決意するようになったのは、少なくとも自分以外のものに強制されてではなく、自分の内部からの意志で選び取ったように書かれているからだ。

どんなに過酷な体験にさいなまれていても、人間として生き続ける可能性を失わないでいられるのは、その人が人間たちの世界とのつながりを完全に失わないでいるからである。どこかで他の人間につながっているからこそ、人は人間たちの世界にもどり、そこで他者と共に生きる勇気を持つことができるのだ。そのような人間が存在するとして、そうした人間の生き方あるいは存在の様式をどう呼べばよいか。

人間と人間との関わり合いを律するのはモラルである。日本語で言えば倫理ということになるが、倫理とは、人倫とも言い換えられるように、人間と人間との相互の関係を律するコードのようなものだ。これを忘れない限り、人間は人間として生きて行くことができる。逆に言うと、人倫を忘れては、人は他者との関係を回復できない。

大江がこの小説を書いた動機はわかるような気がする。彼は彼なりに深刻な体験をしたのだ。その体験の穴ぼこの中で、おそらく大江は自分自身の生き方を見失ったのかもしれない。しかし大江はこの小説の主人公同様、その体験の痛手から立ち直り、見慣れた人間世界に舞い戻ってくることができた。それは大江がモラリストだったからだと筆者などは思う。大江は実に倫理的な人間で、他者に対して人間的に振る舞うタイプの人間なのだろう。






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