学海先生の明治維新その七十七

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 神風連の乱が起きた四日後、十月二十八日には山口県の不平士族が乱を起こした。これを萩の乱という。首謀者の前原一誠は松下村塾の出身であり、維新当時には参議・兵部大輔の要職についたほどの大物だった。明治三年に下野して以来、山口県不平士族のシンボル的な存在となり、新政府の政策を厳しく批判していたが、廃刀令と秩禄処分によって士族の生命線が破壊されたと見るや、一段と過激さを増していた。そんな矢先に熊本で神風連が立ち上がったと知り、それに呼応する形で乱を起こしたのである。
 前原は約二百人の同志を集めて挙兵し、県庁を襲撃したが失敗した。そこで海路島根に向かい、政府軍のスキをみて萩に舞い戻った。ここで市街戦を交えた激しい戦いをくり広げたが、優勢な政府軍に敵するまでもなく鎮圧された。その際前原は少数の仲間と共に船で脱出し、天皇に直訴しようと図ったが、途中島根県令に騙されて捕縛された。
 前原は弁明の機会を与えられぬまま死刑の判決を受け、ただちに斬首された。これには前原を憎む木戸の意向が強く反映されていた。木戸は日頃から前原の言動を深く憎んでいたのである。
 それには伏線があった。前原はなかなか人情に篤い男で、越後府判事をしていた時には水害に苦しむ農民を見て同情し、政府の許可を得ずに減税したことで強くとがめられた。その時彼を最も強く非難したのが木戸だったのである。そこで腹を立てた前原は明治三年の九月に一切の官職をやめて萩に帰り、以後政府の政策を強く批判し続けた。それが木戸の逆鱗に触れたというわけである。
 そんな前原が決起に至った心情的な理由を、学海先生は前原自身の文章を引用して示している。それによれば、我々は維新の大業を成就して天子を中心とした政体を作ったはずだったが、天皇を囲む奸臣たちが権力を私物化して欲しいままに振る舞っている。それ故彼らを除き、政体を正道に戻すことを願って決起したのだとある。
 前原が奸臣と非難した者こそほかならぬ木戸だったのである。木戸を首魁とする奸臣たちは、
「法律を以て詩書と為し、収斂を以て仁義と為し、文明を講じ、公卿を欺き、夷狄を藉りて朝廷を脅す。之を要するに、夷狄横行海内疲弊、神州の安危朝に夕を謀られず、即ち唯に先君の乱人たるのみならず、抑も又朝廷の賊臣なり」と言うのである。
 だが学海先生は、前原を褒めてばかりはいない。前原はつかまった時に自分の行動を言訳しているが、その言訳は武士として潔くないと言っている。前原は熊本の乱が起きたことを知り、何故こんなことが起きたのか、その理由を天子に説明して正しい政道が行われるようにと願っただけで、天子に弓を引くなどとは毛頭考えていなかった。自分の行動は正義にかなったもので、非難されるいわれはないと言っているが、それがいかにもあさましく聞こえると言うのである。
 その感想を先生は次のように日記に記している。
「この人、日頃武勇のきこゑある人なるに、このきはに至りわるびれたるふるまひは、ききしに似ぬものかなとあさむものもありとか」
 萩の乱に呼応する形で千葉県にも乱の動きがあった。これは旧会津藩士長岡久茂が前原と謀議して計画したものだったが、計画がばれて未遂に終わった。この計画には長岡を始め複数の会津人がかかわっていた。前原がこれら会津人とどのようにして気脈を通じたのか、それは謎である。
 この事件は思案橋事件と言われ、ほとんど注目されることはなかったが、学海先生にとっては地元ともいうべき千葉で起きたということもあり、特に注目していたようである。日記にもこの事件への関心を示している。
 前原が起こした乱は、長州閥のお膝元のことであり、また前原が維新の大物であったことから、政府には深刻な脅威に映ったはずだ。しかしもっと深刻な脅威がせまっていた。鹿児島の西郷である。西郷はいまや、ひとり鹿児島のみならず、全国の不平士族のシンボルとなっていた。その西郷が反政府の乱に立ち上がれば、全国的な内乱に発展する可能性がある。そうさせないようにと、政府は西郷に目を配っていた。
 政府にとって脅威だったのは、不平士族の乱だけではなかった。農民たちによる地租軽減を要求する運動が全国的な広がりを見せ、政府を悩ましていた。この運動は地租改正の当初から各地に沸き起こっていたものだが、明治九年になると一段と強力になった。
 この年の春から初夏にかけて和歌山県の那賀郡と日高郡で地租軽減を求めて百姓一揆が起った。百姓たちの主張は、地租そのものが旧藩時代より負担が重くなっていることに加え、金納となったことで、米価の変動をもろに受け、米価の下落によって実質的な負担が更に増えた。物理的に言って無理なことは押し付けないで欲しいと、やむにやまれぬものであった。これに対して県令は
「御上にそむくものは朝敵として家族もろとも赤裸にして外国に追放する」と言って威嚇するばかりであった。
 この辺の官憲側の姿勢はいまの日本にも通じるものがある。今の日本ではさすがに朝敵とはいわないが、政権を批判する者は反日とか売国奴とかいって威嚇される。 
 それはともあれ、農民一揆はますます広がりと過激さを増していった。十一月には茨城県真壁郡で数百人規模の一揆が、また同県那珂郡で千人規模の一揆が起った。いずれも地租改正反対・民費軽減をスローガンに掲げていた。さらに十一月から十二月にかけて三重、愛知、岐阜、大阪、和歌山の各府県で地租軽減を求めて大規模な一揆が続発した。発端は三重県魚見村の農民が地租の軽減と金納から米納への変更を求めて立ち上がったことに対して、県令が威圧的な態度で臨んだために、農民が暴徒化して打ちこわしに走ったことだった。その熱気が近隣各地の農民たちに伝染し、一揆が広がったのである。
 こうした一揆の動きを学海先生は次のように日記に記している。
「本月は一日より常州茨城県の土民蜂起して処々を放火し、三百余人に及び、砲を発し、刀を舞して巡吏を残害するに至る。やふやく十二.三日に至りて事静まりしに、又十七日に至り、伊賀の国の土民等地租改正の事に服せず起り立ち、勢州に至り、津の牢獄・懲役場をやぶり、罪人等をたすけ出し、てあたるまかせて火を放ち、家をこぼち、乱暴狼藉大方ならず。これに応ずるもの多く、終に一万余の勢となり、美濃路に至り、志摩に及ぶ。その乱凡そ五か国にわたりしといふ。十八、九日はもっと夥しく、四日市の駅は廿日、一日にやかる。今に於て静ならずといふ」
 一揆に対する学海先生の見方はかなり否定的である。それは農民を土民と呼んでいることにも伺われる。
 ともあれこうした一揆の勢いを前にして、政府も何らかの譲歩が必要と認めざるをえなかった。翌明治十年一月四日に、政府は地租については地価の三分から二分五厘に引き下げ、民費たる付加税については本税の三分の一以内から五分の一以内に引き下げた。
 これは農民たちにとっては、血の犠牲の上に勝ち取ったものだった。彼らは竹槍を持って完全武装の警察や軍隊と戦い、死者三十五人という犠牲と引き換えにこの譲歩を勝ち取ったのである。それを称して農民たちは、
「竹槍でドンと突き出す二分五厘」と言った。
 農民への地租軽減は学海先生のような官吏にも直接の影響を及ぼした。先生は地租軽減が農民の負担を軽くすることには触れず、それによって政府の歳入が減少し、各役所の歳費が削られたことに注目している。役所の歳費が削られることは、官吏の定員が減らされたり、年俸が減額されることを意味する。そのあたりを先生は日記の中で言及している。
「今年の政事始には、主上綸言ありて天下の税額を減じ給はり、百分の三分なるを二分五厘とす。これをもて全租を算すれば、凡そ歳入の八百万円を減ずるとぞ」
 学海先生を含めてこの時代の人には、税金と言えば封建時代から受け継いだ地租ばかりで、他の税目は全く問題とならなかった。商業や工業の利益に税をかけるという発想は、まだ当分先まで待たねばならない。つまりこの時代の日本は、徳川時代同様農民への収奪で成り立っていたわけである。
 しかし学海先生には、そうした農民への共感はあまり見られない。農民は先生にとって、まじめに税を納めるべき存在に過ぎなかったようである。
 歳入減少の影響は学海先生の修史局にも及んだ。修史局ではいったん吏員を全員解雇して、必要な人員だけ再雇用するという方法をとった。学海先生もいったん解雇されたが、すぐに再雇用された。しかし報酬はかなり下がった。そのことを先生は次のように記している。
「余が前官に比すれば五百円の違あり。されども資給の多少を論ずべきにもあらず。宮内に候して御礼を申上き」
 五百円下げられても報酬は七百円である。この当時の七百円は、今の貨幣価値に換算すると二千八百万円ほどになる。官吏の待遇は非常によかったのである。






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