万延元年のフットボール:大江健三郎を読む

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「万延元年のフットボール」は色々な意味で大江健三郎にとって転機となった作品だ。その割にはテーマがいまひとつわかりにくい。あるようでいて、ないようにも見える。大江がわざとそう仕掛けたのかもしれぬが、従来の感覚で読むと、非常にわかりにくいところがあることは否めないようだ。ようだ、と推測形でいうのは、この小説にはわかりやすい読み方を拒むようなところがあって、したがってどんな読み方でも可能だから、読後感として、あるいは批評として、どんなことでも言えるようなところがあるからだ。

比較的わかりやすいところから、この小説を批評してみよう。まず言えることは、大江はこの作品で初めて本格的な物語に取り組んだということだ。物語の定義にもよるが、大江がこの作品以前に書いていたのは、物語の名には値しなかった。物語というものは、最低の定義としては、作り物であり想像の産物である。場合によってはリアルに見える部分も、巧妙に仕掛けられた虚構であるにすぎない。物語が現実を忠実に再現しているかに見える部分も、それは物語の虚構性を塗布して物語に真実味と言うか迫力を持たせるための仕掛けであって、現実を現実らしく描くことが物語の目的ではない。物語の目的は他にある。その目的が何であれ、物語と言うものは、現実の世界ではなく、物語それ自身の中に物語としての存在根拠をもっている。つまり物語と言うものは、それ自体として自立している虚構の世界を描くものなのだ。

この議論は物語にとっての最低の条件について語ったものであるので、いわば物語についての最低の定義である。この最低の定義に合致した物語を、大江はこの作品で初めて語ろうとした、というのがまず最初の批評のポイントである。この作品以前には大江は本格的な物語を書いたことはなかった、と言ったが、では何を書いていたのか。ある種の限界状況である。ある種の限界状況に置かれた人間たちを大江は描いていた、と言うことだ。それにはカミュとかサルトルと言ったいわゆる実存主義文学とか不条理の文学とかいったものの影響が強くあったと思われる。彼の最初の偉大な文学的達成といわれる「個人的な体験」もそうした限界状況を描いたものだ。それまでは大江にとっては他者である人間の限界状況を描いていたのが、「個人的な体験」では、文字通り大江自身が体験した限界状況を描いたといえる。そうした初期の文学のスタンスを、この「万延元年のフットボール」は、ひとまず乗り越えようとしたのだと思う。

個人的にせよ、他者のものにせよ、体験を描くことは物語を語ることとは違う。体験には現実の裏付けがあるが、物語にはそういうものはない。それはあくまでも作者の想像の産物だ。したがって架空の話である。その架空の話を通じて何かを語ろうとするのが、物語の本質だ。架空とは、言ってみれば無のようなものだから、その架空をよりどころとして物語を紡ぐのは、いわば無から有を生み出すようなものだ。これは非常に困難さを伴なう。だから凡庸な作家は優れた物語作家にはなれない。本当に優れた作家として、人々を感動させるような作品を生み出すためには、豊かな想像力に裏付けられた作り物としての物語をつむぎだす能力が必用だ。大江はその能力を、自分自身のものとして、この作品において試してみたかったのではないか。

その結果どんな物語が生み出されたか。簡潔な言葉で言うのはむつかしいが、大江がこの作品で企てたのは歴史の創造ということだと思う。歴史というものは、言葉の定義からして、それに向き合う人間にとっては、過去の出来事として、与件として与えられているのであるが、大江はこの作品において、歴史を訂正のきかない与件としてではなく、自由に作り替えられるばかりか、全く新たに創造できるものとして描き出した。これは歴史についての、常識的な捉え方とは全く違った捉え方なので、読むものはショックを受ける。そのショックの度合いが強ければ強いほど、物語としてのこの小説は成功していると言えるのではないか。もっともその評価にはかなりのバリエーションがあるとは思うが。

物語には古今東西を通じて一定のパターンがあるようである。ユングではないが、これは人類の本性に根差したことなのかもしれない。そのパターンを慎重に分析すると、あるものは、一人の人間の成長を描くことが主な内容となっている。その成長の過程で、対自然的対社会的な様々な交流が行われる。それはイニシエーションとか、女性の獲得とか、家族の形成とか、壮大な冒険とかいったプロセスを伴なう。冒険ということについては、それだけを単独に取り出して、物語の要素にしたものもある。それらの多くは、現実世界とは次元を異にした、いわば異次元世界との間で往復するような話である。実際児童向けの物語は、ほとんどがそうした冒険の話から成り立っている。

ところで大江がこの小説で行ったことは、上にのべたような人間の成長物語とはかなり違っている。主人公たちは、歴史の創造という困難に立ち向かうことになっており、その意味では、この現実の世界に異次元の世界をもちこむことをめざしている。通常の冒険物語では、異界に行ってさまざまな困難に直面し、それらを解決する過程で、一段と大きな人間になって、この世界に回帰すると言うパターンがほとんどだが、この作品では、異次元の世界をそのままそっくりこの現実世界に再現しようとする営みが描かれている。

このことを、テキストに沿った形で言い換えると次のようになる。歴史を創造しようと働く主体は主人公である語り手=僕=蜜三郎の弟鷹四である。この男は僕や僕の妻そして他の多くの登場人物からタカと呼ばれている。そのタカが、過去に彼ら兄弟の故郷である四国の山奥を舞台に起きたとされる一揆の歴史をそのまま現実の世界に再現しようとする。だが、過去のことをそのまま現代の現実に再現することは不可能だから、それは歴史を新たに創造することに他ならない。その場合に、過去はあくまでも参照軸としての位置づけに止まるのであって、創造される現実の事態は、それとはまったく別のものだ。だから新たな創造と言えるわけだ。その新たな創造、歴史の創造を何故タカが目指すのか。その謎にまわつることがこの小説の最も中核的なテーマをなす。そのテーマをめぐっては、中心人物はタカということになるが、僕はそのタカの兄としての立場から、タカの歴史の創造に立ち会うことになる。したがってこの小説の骨組みをなす部分は、歴史の創造をめぐる僕とタカとの兄弟間の葛藤からなることとなる。それを中核軸としながら、僕とその妻、僕ら兄弟と彼らの故郷の人々の間の葛藤などがからまり、付随的な事柄として日本人と朝鮮人の民族的な反目などがからみあうと言った構造になっている。

こういうわけだから、この小説のメインプロットは、歴史の創造としての世直しにあるのだが、普通こういう場合には、プロットの名目は一応達成されることになるのが常道である。この小説の場合には、世直しが一応成功することが予想される。でなければ歴史の創造とは言えないからだ。失敗した世直しも一つの歴史と言えなくもないが、やはり物語として成り立つためには、世直しは成功しなければならない。ところがこの小説の場合には、世直しは失敗してしまうのだし、それを推進したタカも自ら命を絶ってしまう。しかもその自死の原因が極めて複雑なために、この小説はタカの自死のほうに読者の関心を集中させるようなことにもなる。しかし、それは物語としては成功したとは言えない。と言うわけでこの小説は、歴史の創造をモチーフにしながら、それが前面に出てこないで、サブテーマであるタカの心理的な背景とか彼と僕との兄弟間の軋轢とかにかなりのウェイトがかけられている。そういう意味では、この小説は読者の注意を分散させる結果をもたらしており、その点では物語としてやや散漫を免れないところがある。






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