遥かなる勝利へ:ニキータ・ミハルコフ

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ニキータ・ミハルコフの2011年の映画「遥かなる勝利へ」は、「太陽に灼かれて」で始まる独ソ戦三部作の最後の作品だ。ここでコトフ大佐は生き別れになっていた最愛の娘ナージャと再会する。しかしそこは独ソ戦の最前線で、コトフはナージャを地雷から助けようとして自らが犠牲になり死んでしまう。ハッピーエンドにはならないのだ。

三部作を締めくくるとあって、全編を引き締める効果がある。コトフがなぜ逮捕されたか、その後拷問によって無実の罪を認めさせられ、収容所送りになったものの、スターリンの命令によって軍務に復すことになった経緯、が明らかにされる。スターリンがコトフに関心をもったのは、彼の愛国心と勇敢さに感心したためだ。スターリンはその愛国心と勇敢さを、祖国のために使いたいと思う。コトフにしかできない任務を与えようと言うのだ。それは一万五千の裸の兵を率いてドイツ軍に体当たり攻撃をしかけようというものだった。いわばロシア版肉弾戦をしかけさせようというわけだ。

その過程で、別れていた妻とも再開する。妻は意外なことに下男のキリルの子を産んでいた。しかしコトフは妻を許そうとする。しかし自分の行為を恥じた妻は、自らコトフのもとを去ってゆく。その両者を引き合わせたのは、ドミトリーだった。ドミトリーはコトフから妻のマルーシャを奪うためにコトフを陥れたのだったが、肝心のマルーシャが自分になびかないばかりか、つまらぬ下男の子を宿してしまう。そんな彼女に恥をかかせてやろうとして、コトフを妻にあわせたのだった。そのドミトリーも、今度は自分が無実の罪を着せられて逮捕され、それまで自分の下男だった男から尋問をうけるという巡り合わせになる。

こんなわけでこの映画は、人間の宿命のようなものを、ロシア的な観点から描いてゆく。ロシア的と言うのは、運命の前に屈服する受動的な人間性のことらしい。この映画に出て来る人間たちには、コトフをのぞいては、自分の運命を自分で切り開くといった積極性が見当たらない。それどころか、自分の運命に弄ばれ、軍人でさえ自分の始末がつけられない。コトフが属した連帯の司令官などは、酔っぱらいながら指揮をとり、部下に向かって荒唐無稽な指示を出す始末だ。しかしそんな指示を出されても部下たちは何も言わない。バカな指揮官を持ったのも自分の運命だと言わんばかりに、黙々と従うのである。

映画は、コトフとナージャの戦闘体験を交互に描いてゆく。コトフは相変わらず英雄的な働きぶりをみせる。一方ナージャも、戦傷のために声が出なくなってしまったが、そのハンデを乗り越えて勇敢に戦っている。そして自分の居合わせた戦場で、父親のコトフを発見し、劇的な再会を果たすのだ。しかし彼女は、誤って地雷を踏んでしまった。その踏んだ足を上げると地雷は爆発するように出来ている。そこでコトフはナージャの足の上に自分の足をのせ、ナージャには足を地雷から離れさせる。そうしてナージャが十分な距離を離れたタイミングで、コトフは自爆するのである。

こんな具合に映画は悲しい結末を迎える。その前に妻の不実に直面しているから、コトフにとっては二重につらいことだったわけだ。しかし、そんなつらさで人生は成り立っているものだ。そんな諦念が伝わってくるように映画は作られている。

この映画の中のドイツ軍は、やはり近代兵器を持った強力な軍隊として描かれている。そのドイツ軍がコトフらの軍に敗れたのは、コトフらが強かったためではなく、ドイツ軍が自爆したためだ。まともに向き合ったら、ロシア人はドイツ人にかなわないという諦念が、そんなところからもうかがえる。






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