折口信夫のまれびと論

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「まれびと」は「常世」と並んで、折口信夫の思想の中核概念だ。折口はこの概念を「国文学の発生」第三稿のなかで初めて体系的に論じた。その論じ方がいかにも折口らしいのである。


学者なり思想家なりがある概念を提示する時には、自分がそれによって何を言いたいのか、また自分はなぜそれにこだわるのか、ということを問題意識という形をとって明示するのが普通であり、ついでその概念の意味するところを明確な形で定義するのが礼儀とされる。折口の場合はどうか。

折口は「国文学の発生」第三稿の冒頭を次の文章で始める。「客をまれびとと訓ずることは、我が国に文献の始まった最初からの事である」。

これはどういうことか。折口はこの小論を「まれびと」についての考察にささげていると明言しているとおり、「まれびと」こそがこの小論で提示されるべき概念なのだが、その概念についての自身の問題意識を、こういう形で表したわけである。しかし問題意識の表現としてはいささか変わっている。この文章を曇りのない眼で読むと、折口自身の問題意識というよりは、「まれびと」という言葉の語義解釈の例として受け取られる。

折口がこういう表現を採用したことには、それなりの理由がありそうだ。折口は「まれびと」という言葉あるいはその言葉によって表現される概念を、これから考察すべき対象としてではなく、すでに明示的に示されていて、いまさらその内包についてあれこれ思量すべきような対象ではない、と考えているのである。「まれびと」とは、すでに我々にとって知られたものである。この言葉は太古より我々の祖先によって用いられており、いまさらその内容について疑念をさしはさむようなものではない。しかしてその言葉の意味は、「客」ということにある。ただそれだけのことを折口は、この文書で示したかったのである。

こういうことで折口は何を言いたかったのか。先ほどもちょっと触れたとおり、学者なり思想家なりがある概念を提示する時には、その概念についての自身のこだわりを問題意識という形で示すのが普通のことだと言ったが、折口の場合には、自身の問題意識に先立って「まれびと」という言葉が存在してきたのであるから、自分はそれについて改めて自分の問題意識をあれこれする必要はなく、「まれびと」という概念を自分がどうとらえているかを明らかにすればよい、そう考えているわけである。

このへんが折口のユニークなところであり、柳田国男などとは正反対な行き方である。柳田の場合には、ある概念の提示に先立って、自分がなぜそれにこだわるのかについて問題意識という形で提起し、ついで事象を広く渉猟したうえで、それらを比較検討し、そこから帰納的な手続きを踏みながら、その概念の内包と外延を明らかにしてゆくという方法をとる。そうしてその概念を明確に定義できたところで、次はその概念によって多くの事象を根拠づけたり説明したりする。それが実証的な態度というものだ。

ところが折口は、自分の思想を展開するについて依拠しようとする概念を、実証的な手続きによって根拠づけようとする意志はなく、すでに存在しているもの、それゆえ一応は誰によってもわかっているものとしてストレートに提示する。ただ、その概念の内包と外苑とがくまなく人々によって理解されているとは限らないので、一応それを自分なりに明らかにしたうえで、その概念を自分の思想をあらわすキーワードとして使っていきたいと主張しているように見える。

そういうわけであるから、折口の概念論はある種の言葉遊びの観を呈する。概念を説明するのに、その概念を表現する言葉の解釈を以て代替させるからである。概念は実証的な帰納手続きの結果得られるものではなく、語義解釈を通じて明らかにされるものなのである。帰納は総合的な手続きだが、語義解釈は分析的な手続きである。帰納はカントのいわゆる総合判断として新たなものを生みだす原理となるが、語義解釈は言葉にすでに含まれているものを演繹的に暴き出す。そういう意味で、折口のしていることは、カントのいうアプリオリな判断と同様、新たなものは生み出さない。

「まれびと」とは客のことである、というのが冒頭の文章の意味するところであるが、そのことで折口は何を言いたかったか。そこで「客」という言葉が問題となる。何故なら「まれびととは客である」と言っても、「客」という言葉が明確でない限り、何も言ったことにはならないからである。そこで折口はこの「客」という言葉に内実を持たせようとする。

折口によれば、「まれびとは来訪する神」ということになる。我々の祖先にとって、来訪する神がまれびとと呼ばれた。その理由は、神は常世の国から一年に一回だけ、つまりまれに現われる存在だったので「まれびと」と名付けられたということになる。我々日本人の文化的な伝統、それは和歌とか演芸とかいった芸能が中心となるが、そうしたものはほとんどすべてが、まれびとを迎えることと何らかの関連をもっている。というより、まれびとを迎える儀式から、我々日本人のさまざまな文化的伝統が生まれたというのである。

ここでも折口は、なぜ客が来訪する神と言えるのか、その根拠を帰納的な手続きを踏みながら明らかにしようとはしない。彼の主張の根拠は、言葉の語義解釈くらいしかないのである。

次のステップとして折口は、この来訪する神の実体は我々の先祖だと言い、その点では柳田国男と一致するのだが、そこでも折口はなぜ神が先祖と同じものと言えるのか、その根拠を明らかにしようとはしない。あたかも柳田がそのことを証明したから、自分がそれについてあらためて云々する必要はないだろうと開き直っているかのようである。

こんな具合で折口の思考パターンにはかなり独断的なところが多く見られる。その思考を支えるのは、言葉の語義解釈と折口なりの直感ということになろうか。






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