鑓の権三:篠田正浩

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篠田正浩の1986年の映画「鑓の権三」は、近松の浄瑠璃「鑓の権三重帷子」を映画化したものだ。原作は姦通と女仇討ちをテーマにしている。妻に姦通された夫が、妻とその姦通相手の男を共に討ち果たすというもので、同じようなテーマのものとしては「堀川波鼓」がある。どちらも姦通をした妻の立場から姦通のいきさつと、姦通という罪を犯した妻の無念さを描いているが、「鑓の権三」の場合には、妻は自分の意思から姦通をしたつもりもないし、また実際に肉の交わりを結んだわけでもない。にもかかわらず、自分から姦通の罪を背負って、潔く夫に討たれるというような内容だ。

近松はこの浄瑠璃を実際に起きた女仇討ちに取材したのだが、その際に、当時巷に流れていた流行歌鑓の権三を狂言回しとして取り入れた。流行歌に唄われた鑓の権三を、姦通の当事者として引っ張り出したわけである。そのためか、劇の進行には独特の色気が感じられるようになっている。

姦通の当時者は、地方の或る藩の鑓の使い手権三(郷ひろみ)と、彼の上役の妻おさゐ(岩下志摩)だ。その上役が江戸詰めで留守の間に姦通がおきたということになっている。当時は、参勤交代で夫が地元を長らく留守にしている間に、妻が姦通するという事態がよくおこったようで、この件もまたその一例だというふうに伝わって来る。

だが、この姦通は並みの姦通とは違っていた。男女に姦通したという意識は全くなく、ちょっとした手違いから他人に誤解を与えてしまい、それがもとでのっぴきならない立場に追い込まれるのである。何故そうなってしまったのか。そこには色々と込み合った事情が絡んでくるのだが、要するに夫の留守中に妻と二人きりになり、そこで感情のもつれあいから派手なたちまわりをするはめになり、それを他人に見られてしまうのだ。彼らのもつれあいを見たのは、権三と出世争いをしている同僚で、この男も件の妻に不純な気持ちを抱いていたのであったが、ひょんなことから二人がもつれあう場面を目撃し、それを城中に言いふらして歩くのだ。

誤解とはいえ、姦通の汚名を着せられた二人は、手を取り合って逃げることになる。もとより愛し合っていたわけではないから、二人が逃げるのは恋の逃避行ではない。とりあえず命をつないでおいて、気分がすっきりしたところで、潔く討たれるつもりなのだ。しかし日本中を手を取り合って逃げているうちに、自ずから情愛が湧いてきて、ついには肉の交わりをするにいたる。女のほうではもとから権三に気があったのだ。一度はその権三に娘をめあすつもりになったのだが、こういう状況に陥ったことを逆手にとるように、自分自身が男と添い寝をするようになるのである。

その二人を亭主と女の兄とが追い求める。そしてついに、伏見の橋の上で出くわすことになる。もとより自分から討たれる覚悟の権三は大した反撃もしないままに、夫によって討ち果たされる。妻も又夫の刃にかかる。こうして姦通の当事者は成敗され、彼らを討った夫は面目を果たして、武士の世界に再び迎えられるというわけである。

この映画を理解するには、原作の精神を理解することが前提になろう。そしてそれを理解するには、徳川時代の封建道徳を理解することが必要だ。それがないとこの映画は、まったくわけがわからないということになる。他人の誤解をそのままに、自分たちの姦通を認めることがまずわからないし、何らの申し開きもしないままに、女敵討ちの刃に身をさらすというのもわからない。我々現代人の眼には、誤解されればその誤解を解くというのがまず普通のありかただし、誤解されたままで一方的に殺されるのは馬鹿げていると思うのが当たり前だ。その当たり前とは全く違った異様なことが、この映画の中ではまかり通っているわけで、これは我々現代人にはなかなか理解することがむつかしい。

映画の出来とは別にして、この映画の中の岩下志摩はじつに色気がある。こんな女だったら、男なら誰でも抱いてみたくなろうというものだ。





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