決闘:チェーホフ

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「決闘」はやや長めの短編小説である。しかも章立てをとっていて、21章からなる。短編小説としては破格の長さと複雑な構成というべきである。そうなったのには理由がある。チェーホフはこの小説を通じて、ロシア人の典型的な人間像のいくつかのパターンを読者に示そうと試みたのだ。人間像は、スケッチ風にさらっと描かれることもできないわけではないが、チェーホフはかなり本格的に描こうとしている。それでこの小説は、短編小説としては破格の長さと複雑な構成を取るに至ったわけであろう。

この小説にはかなりな数の人間たちが出て来る。主役格はラエーフスキーという青年である。この青年はペテルブルグからこの小説の舞台であるコーカサスのある町の官吏として赴任してきたことになっている。この町は、コーカサスの黒海に臨んだ小さな町ということになっているので、もしかしたらソチかもしれない。かれがこの町にやってきた理由は明らかではないが、一人の女性を伴なってきた。その女性はナジェージダといって、亭主持ちの女なのだが、それにラエーフスキーは手を出したのであった。

ナジェージダには尻軽なところがあって、亭主がありながらラエーフスキーに身をゆだねたばかりか、この小説の舞台でも、ラエーフスキー以外に二人の男に身をまかせる。そのうちの一人キリーリンはハンサムな男だったので、ついむらむらとして身をゆだねたのであった。もう一人のアチミアーノフについては、ナジェージダは彼の父親に借金があって、息子を誘惑したらその借金が帳消しにできるかもしれないという浅はかな考えから彼を抱くのである。

このようにふしだらな女ではあるが、ラエーフスキーが彼女に愛想をつかしたのは、彼女の尻軽なせいではなかった。むしろ逆である。彼女の平凡さが気に入らなくなったのだ。もし彼女の非凡さをラエーフスキーが自覚していたら、その非凡さが尻の軽さによって表現されていたとしても、彼女に飽きるということはなかっただろう。

ラエーフスキーには日頃親しくしている男がいた。サモイレンコという軍医である。軍医とはいっても、小説の中では、軍隊勤めの場面は出てこない。小説の中の彼は、二人の男を相手にまかないサービスをしていることになっている。その二人の男とは、フォン・コーレンというドイツ系のユダヤ人と、ポピュドフという補助司祭である。フォン・コーレンはラエーフスキーが大嫌いで、自分の嫌悪感を隠さない。かれがラエーフスキーを嫌悪するわけは、本人の言い分によれば三つある。一つはこの街の人々にヴィントを流行らせたこと、一つはこの街の人々にビールを飲むことを覚えさせたこと、そしてもうひとつは人の女房と一緒に暮らしていることだ。かれはその嫌悪感をラエーフスキーに直接ぶつけ、結局二人は決闘する羽目になる。この小説の表向きのテーマは、この二人による決闘なのである。

このほかにも大勢の人間たちが登場する。なかでも面白いのはケルバライというコーカサス人で、この男は完全にロシア語を話せるにもかかわらず。フォン・コーレンはこれを野蛮人扱いするのだ。話しかける時にはわざと訛りのあるロシア語を使う。そんなフォン・コーレンをケルバライは鷹揚に受けとめ、立派なロシア語が話せるにもかかわらず、訛りを混ぜて話すのである。

さまざまな人間たちが、入れ代わり立ち代わり出てきて、色々なことをするのだが、それらをひとことで言い現わすと、他愛ないおしゃべりに帰着する。ロシア人というのはおしゃべり好きにできていて、酒を飲むかおしゃべりをするか、そのどちらか、あるいは同時に両方をすることで、生活が成り立っているのである。それに加えてナジェージダなどは、朝から海水浴を楽しむ。要するにロシア人というのは、暇つぶしにうつつをぬかす人種だとチェーホフは言いたいようなのである。その暇つぶしのなかには、ナジェージダの場合には、男とセックスをする楽しみも含まれているというわけである。

さて、ラエーフスキーは、なんとかしてナジージダを捨てて、もう一度身軽になって、好きなことをしたいと考えている。だが彼には金がない。そこでサモイレンコから金を借りて、都合よく逐電したいと考えている。人のよいサモイレンコは、ラエーフスキーのために金を用立ててやりたいと考えるが、手持ちの金がない。そこでフォン・コーレンに貸してくれと頼むのだが、フォン・コーレンはラエーフスキーが嫌いなので、もしもラエーフスキーのためなのなら貸せないという。それでもしつこく貸してくれと言われたフォン・コーレンは条件を付ける。ナジェージダも一緒に連れていかせろというのである。

こんなことを背景にして、ラエーフスキーとフォン・コーレンとの間にやりとりがあり、ひょんなことから二人は決闘をする羽目になる。決闘は、その当時はすでに非合法になっているらしいが、紳士の名誉を実現する手段として、まだ尊重はされていた。そこで決闘の礼儀にしたがって大勢の人間が介添え人とか介抱人とかをつとめることになる。そうした騒ぎを伴ないながら決闘の儀式が進行し、ラエーフスキーは顔を拳銃の弾丸で傷つけられたりするが、二人とも命に別状はない。

この決闘がもたらした意外な効果は、この決闘を通じて、それまで天敵同志だったフォン・コーレンとラエーフスキーが仲直りをするどころか親密な間柄になったことだ。それだけではない、ラエーフスキーはこの決闘以降すっかり心を入れ替えて、まじめに暮らすようになったばかりか、ナジェージダに惚れ直すようになった。かれはいざ決闘に臨んで、自分にはナジェージダ以外心を許せる人間がいないということを思い知ったのだ。

こんなわけでこの小説は、決闘をめぐって展開していくのだが、その展開というのが、うんざりするほど退屈なおしゃべりからなっているのである。そうしたおしゃべりを聞かされたものは、とりわけ筆者のような外国人にとっては、ロシア人とはおしゃべり以外に能のない人種だと思わされるほどである。







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