安倍晋三総理の言論の自由

| コメント(0)
先日安倍晋三総理がある集会で、民主党政権の時代を悪夢と表現したことで批判を浴びた。それに対して安倍総理は、自分にも言論の自由があると答えた。かれにも言論の自由があるのは当然のことだが、その自由を行使したことで批判を浴びたのはどういうわけか。

安倍総理が民主党政権を悪夢と表現したのは、おそらくは政敵への対抗心からだろう。それに対して、もと民主党の関係者が反発し、国会の場で批判した。その批判に対して安倍総理は、言論の自由を盾にとって、撤回を拒否した。その拒否の仕方が高圧的だとして、安倍総理を批判する人が多いようだ。

安倍総理を批判する理由は、安倍総理の言葉が言いっぱなしで、それに対する批判にまともに答えていないということだ。言論の自由というのは、言いっぱなしの自由を意味するわけではなく、それに対する批判に応答する責務を負っているというのが、常識的な見方だ。安倍総理はそうした常識に反しているばかりか、言いっぱなしをすることで、健全な意見のやりとりを拒否している。これは、政治家にとっては許されることではない。政治家というのは、言葉による健全な討論を通じて、自分の意見を公衆に訴え、そのことでよりよい政治を実現していく責任を負っているのではないか。政治家が、自分の言いたい放題のことを言い、その言葉に応答責任を負わないのであれば、そこから生じるのは、理性的な論争ではなく、感情的ないがみ合いだろう。

ましてや、安倍晋三総理は、一国の総理大臣である。そういう立場の人間が、自分の言ったことに責任をとらず、言いっぱなしに終わることは、国民にとってゆゆしきことではなかろうか。

言論の自由は、総理大臣を含めてすべての人に認められている。その自由度についての解釈には一定の幅があり、なかにはどんな言論も許されるといった極端な意見もあるが、相手の人間性を誹謗したり攻撃したりするものは許されないといった意見が主流である。それに反する言論、たとえばヘイトスピーチと呼ばれるものは制約されている。それは、先ほども言及したように、言論には応答責任がともない、ヘイトスピーチのような極端な言論はその責任を果たしていないと考えられているからだ。

今回、安倍晋三総理が批判されたのは、この、応答責任に応えていないということによる。ましてや、安倍総理は一国の総理大臣であり、最高の権力者である。その権力者が、言論の自由を盾にとって、言いたい放題のことを言いっぱなしにするというのは、背筋が寒くなるほど、不気味なことだ。

言論の自由は、歴史の教えるところでは、国民が権力の抑圧から解放されて、自由に意見をいうということを内実としている。要するに、権力からの自由だったわけだ。自由権といわれるものは、だいたいがそういうものだ。それを、ほかならぬ権力者が逆手にとり、自分の都合のよいように使う。こうした権利の濫用は、安倍政権の得意とするところらしい。先日は、辺野古の埋め立てを阻止しようとする沖縄県に対して、国側から行政不服手続きを援用した。これは、もともとは国の横暴から自治体を護るための規定であったのを、自治体を屈服させるために国が濫用したものだ。

こうした安倍政権のやり方は、自分の都合のためにはなりふりかまわず振る舞うという、実に危険な傾向を感じさせる。





コメントする

アーカイブ