日本の検察はゴーン裁判に勝てるか

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ゴーン事件をめぐっては、日本の刑事司法手続きに対する海外からの批判は見られるが、こと日本国内に関して言えば、メディアはゴーンの有罪を当然の前提とした書き方をしているし、一般国民も、ゴーンは当然罰せられると思い込んでいるようである。それにはどうも理屈を超えたところがあるように見受けられるので、小生などは不気味な思いをさせられるところなのだが、なかにはこの事態の日本的な特殊性を指摘し、日本の検察には、この裁判で負ける可能性があると考えているものもいるようだ。

会計評論家の細野祐二が、雑誌「世界」の最近号(2019年3月号)に寄せた文章の中で、この事件の日本的な特異性と、日本の検察が裁判で負ける可能性について言及している(「日産ゴーン事件の研究」)。それを読むと、なかなか考えさせられるところがある。

細野はこの事件を、日産内部の権力争いに、検察が民事介入したと評価している。その民事介入にあたっての検察の立論にはかなり無理な部分が目立つので、論理的に考えれば、検察は裁判に耐えられず負ける可能性があると指摘している。

細野は、ゴーンに対する逮捕容疑のそれぞれについて、会計学的・法理論的な考察を加えている。まず最初の逮捕容疑となる有価証券取引法違反。これはゴーンの報酬が有価証券報告書に記載されていなかったことを理由としたものだが、果たしてそうした検察の主張がなりたつのか。この容疑が成り立つためには、①原因の事実となった報酬が発生していること、②その報酬が合理的に見積もりされていたこと、③支払いの蓋然性が高いこと、といった企業会計上の原則にもとづく条件を、いづれも満たしていることが必要であり、そのうえで、支払いの蓋然性の高い報酬については、有価証券報告書に記載する義務があり、その義務を怠ったゴーンには、刑事責任を追及する理由があるということになる。

細野は、上述した要件のそれぞれについて考察を加えた結果、ゴーンの先送りされた報酬50億円については、支払いの蓋然性は極めて低いと言わざるを得ず、したがって、企業会計原則上の発生主義の原則に従うかぎり、ゴーン元会長の先送り報酬50億円は有価証券報告書において開示すべき役員報酬にはあたらないと決論づけている。

ゴーン容疑者の二回目の逮捕は、一回目の逮捕事由と、対象時期をのぞけば全く同じ事由である。それはそれとして問題だが、おかしいのは二回目の逮捕事由で本来責任を追及されるべきは、その当時の社長であった西川広人であって、ゴーンではない。なぜなら、その時の有価証券報告書の記載者は代表取締役社長西川広人だったからだ。だからゴーンはせいぜい共同謀議者の立場に止まる。その共同謀議者を逮捕して、主犯の西川を逮捕しないのは、検察は法の正義を自らゆがめてしまった、ということになる。

三度目の逮捕容疑は特別背任であるが、これにもおかしなところがあると細野はいう。特別背任の具体的な内容は、ゴーンが個人的に運営していた通貨スワップ契約を、リーマンショックで多額の含み損が出たことをきっかけにして、日産に付け替えたというものだ。しかしその付け替えは、最初に直面する決算報告に先駆けてゴーン個人に付けもどされた。したがってその時点(付け替えが行われていた時期)では、損失は含み損にとどまっており、日産には損害は生じていない。ゴーン自身もそのように主張して無罪をアピールしているわけだが、検察側はこれが特別背任にあたると強弁している。

特別背任が成立するためには、ゴーン会長の故意による日産自動車の損害発生がなければならないが、ゴーン会長にはそのような動機はなく、また日産には具体的な損害は発生していなかった。それゆえゴーン元会長に対する特別背任容疑は成立しない。

このほか、この事案には、法や会計原則に照らしておかしな点が多々みられるのだが、検察は裁判の行方については、なぜか自信満々である。その自信は、これまでの裁判実績によって支えられているのであろうが、それらの裁判はみな、日本人相手のものであり、検察は諸外国からの批判をほとんど気にする必要がなかった。ところが今回は、国際的に著名な人物が被告であり、しかも被告に対する容疑事実に多分の無理があるとすれば、検察が負ける可能性は低くはない。そこは日本の司法のこと、検察と裁判所が手を取り合って全力をあげるだろうから、弁護側も、本気で勝とうと思ったら、それ相応の努力をしなければならない。そう細野は指摘して、この裁判の行方を見守っているようだ。





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