正義と根源的な知

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根源的な知について論じた前稿のなかで、正義と根源的な知についての関係について示唆しておいた。正義は人間性が実現された状態だというのがこれまでの小生の考えで、その人間性についての洞察が根源的な知の内実をなしていることからすれば、正義と根源的な知が深いかかわりをもつのは必然だといえる。そこでこの二つがどのようにかかわりあっているのか、そこを掘り下げて考えることで、我々は人間性についての理解を深めることができるのではないか。

前稿で述べたように、根源的な知は、あらゆる種類の知の土台となるものである。根源的な知を持てなければ、哲学的、科学的な知は無論、日常的な知についても幼稚な受け取り方しかできない。我々ができるのは皮相で浅はかな見方だけであり、そうした見方で、人間や世界を解釈することになる。そうした解釈にたった人間の生き方は、あさましいものになるだろう。それゆえ、根源的な知を持つことは、我々が生きていくうえで、非常に重要なことなのである。

そこで、根源的な知の内実はなにかということがあらためて問題になる。前稿では、人間性についての知が根源的な知の中核をなすとした。人間性はさまざまな要素から構成されているので、人間性とはかくかくしかじかのものだというような手っ取り早い言い方はできない。人間性を構成する様々な要素について、丁寧に解明する作業を通じて、その全体像に近づいていくほかはない。

その場合でも、人間とは何かについての予備的な知が必要になる。何故なら、人間とは何かについてあらかじめ知っていなければ、これから明らかにしようとする人間性の全体像について、適切な考察をすることは出来ないからだ。ある対象を解明しようとするためには、その対象の何たるかをあらかじめわかっていなければならない。

そこで人間とはとりあえずどのようなものかということが問題となる。この問題を提起したのは私であるが、その私は自分自身が人間であることを知っている。私は、私自身とそれ以外のものとの間に境界をもうけ、その境界の内側を人間といい、その外側を世界という。人間とは私のことなのである。

しかし境界の外側にも人間と呼ばねばならぬものがある。私以外の人間たちである。私は、それらの人々が人間であることをどのようにして知るのだろうか。私に似ているからだろうか。無論それもあるだろうが、事態はそれほど単純ではない。私は、私を基準として、それを人間と言い、その私の延長として他者をとらえるというような単純な構図にはなかなかならないのである。

というのも、私は一人でこの世界に生きているわけではないからだ。第一、私は自分の意思にもとづいてこの世界に出現したわけではない。私は他者としての両親によってこの世界に到来させられたのである。この世界に到来してからも、私は私一人で生きてきたわけではない。私が私以外の他者や私を取囲む世界について考えたり語り掛けたりするのは言葉を通じてであるが、その言葉は私がひとりで作り出したものではなく、私以外の人間たちとのかかわりのなかで学びとったものである。その言葉には、世界の認識にかかわる必要な要素が盛り込まれている。というよりか、私は言葉を通じて世界を認識するのである。言葉には、世界をどのように認識すべきかについての、具体的な指示が含まれている。

私がなにかある対象を認識する時、私はそれを純粋な個物として認識するわけではなく、普遍を通じて認識する。私があるひとつの石を認識する時には、わたしはそれを石という概念の一例として認識している。認識とはそもそもそういうものだ。普遍的な概念に当てはめて具体的な個物を認識するというのが、我々の認識の仕方なのである。この場合に、普遍的な概念は言葉によって表示される。だから、我々の認識の体系は、言葉の体系と一致するのである。

その言葉の体系のなかで、中核的な位置を占めるものが、人間についての知を表わす言葉である。なぜなら、我々は人間の一員として生きているのであって、自分にとってふさわしい生き方とは、人間らしい生き方だからである。この場合の人間らしいとは、人間性に合致していることを意味する。我々人間は、社会的な生き物なのであって、他の人間とのかかわりの中で、生きている。そのかかわりのなかから、言葉が生まれ、人間らしさについての了解が生まれて来る。その了解は、私が生まれて来る前から形成されていたもので、私にとっては、人間として生きていくための前提条件となっている。わたしをこの前提条件を学び取ることで、人間らしい生き方ができるのである。

こうして人間らしい生き方ができるための基盤ができたことで、私は世界のなかでの自分の立ち位置を確固たるものにすることが可能になる。その基盤は私にとっての生きる上での知恵といってよい。その知恵を小生は人間にとっての根源的な知と呼びたいと思う。だから根源的な知とは、人間らしく生きるための前提条件といってよい。それは世界についての私の認識枠組みのような機能を果たす一方、他者とのかかわりを律する倫理的な条件ともなる。倫理的という概念は、私と他者とのかかわりを律する働きを内蔵しているのである。倫理とは人間同士のかかわりのことだと言ってもよい。

これまでのところで、人間性についての知が根源的な知の内実をなしていることが明らかとなった。次はこの人間性がどのようにして正義を基礎づけるかが問題となる。正義とは、政治的な文脈において語られることが多いが、本来は倫理的な概念である。なぜなら倫理とは、人間関係を律する原理である限り、政治ともかかわりがあり、その意味では、政治を含んだ人間関係の原理といえるからである。政治は人々の意思をコントロールすることを内実とした現象であるが、その意思のコントロールは、権力という形をとる。権力の現象は人と人とのかかわりを内実としているから、すぐれて倫理的な現象なのである。

正義とはそのような倫理的な関係にあって、人間性が実現された状態をさすといってよい。人間をして人間らしくさせるもの、それが正義である。言い換えれば、人間に人間本来の姿を確保させるものが正義である。

根源的な知とは、人間の本来的なあり方についての知恵といってよかった。一方正義とはその智慧がそのままに実現された状態といってよい。ということは、根源的な知も正義も、人間性とのかかわりの中で、深いつながりを有しているわけである。両者は、人間性についての二つのアスペクトといってよい。





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