ジュリアス・シーザー:シェイクスピア劇の映画化

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チャールトン・ヘストンがマーク・アントニーを演じた1969年版の「ジュリアス・シーザー」は、原作の雰囲気がよく生かされているわかりやすい作品だ。アメリカ映画なので、無教養なアメリカ人でも理解できるように作られていながら、肝心な部分では原文を生かすなど、心憎い演出がなされている。

この劇の命は、ブルータスとアントニーがそれぞれ熱弁を振るいながら群衆の支持を勝ち取ろうとすることで、さながら弁論劇の様相を呈していることは、よく知られている。言論が主体の劇は、とかく退屈になりがちだが、シェイクスピアの原作は、緊張が絶えないようにできている。その緊張感を、この映画もよく伝えているといえよう。

原作では、ブルータス側の正義への思いが最大限伝わって来る一方、アントニーは口先で大衆の心をつかんだように描かれている。そのアントニーによって倒されたブルータスは悲劇の英雄としての面影があるのだが、映画は、一方ではアントニーを格好良く描きながら、ブルータスにも観客の同情が向くように仕上げている。「ジュリアス・シーザー」とはいっても、シーザーが主人公ではなく、アントニーを主人公にしているので、映画としてはそのアントニーをあまり軽く扱うわけにはいかなかったのだろう。

映画の見どころはラストシーンにつながる戦争シーンだ。そこでアントニーに追われているブルータスとキャシアスが、それぞれ剣を胸に突き立てて死ぬ。死んだブルータスのところにアントニーがやって来て、ブルータスの勇気をたたえるのは原作と同じだが、映画では、ブルータスの野心が強調されていたただけに、そのブルータスをなぜアントニーがほめたたえるのか、いまひとつ腑に落ちないところもある。

そこは、ブルータスを野心家として描き、シーザーの死に同情しすぎたことの結果だろうと思わせられる。筋書きを、原作よりも単純化させたせいだろう。

主演のチャールトン・ヘストンについては、「ベン・ハー」の演技ぶりから、マッチョなイメージが強いが、この映画の中では、弁論にたけたスマートな人間としてのイメージを振りまいている。






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