数あるシェイクスピア劇のなかでも「ロメオとジュリエット」はもっとも多く映画化された作品だ。その中でもジョージ・キューカーによる1936年の映画化作品は、原作の雰囲気をもっともよく再現したものといえる。多少の省略はあるものの、ほとんど原作に忠実であり、台詞もなるべく原作そのものを採用している。その結果、やや荘重すぎるきらいに流れないではないが、シェイクスピア劇としての雰囲気はたっぷり味わえるように出来ている。この映画を見ただけで、「ロメオとジュリエット」という芝居を語る資格ができそうである。
原作の雰囲気に忠実な場面をいくつかあげよう。まず、夜のバルコニーを隔てた有名な場面。ロメオがため息をつきながらジュリエットに呼びかける。
I would I were thy bird.
それに対してジュリエットが答える。
Sweet, so would I:
Yet I should kill thee with much cherishing.
Good night, good night! parting is such sweet sorrow,
That I shall say good night till it be morrow.
また、二人が一夜を共にしたあと、朝を告げるひばりの声を耳にする場面。
JULIET:Wilt thou be gone? it is not yet near day:
It was the nightingale, and not the lark,
That pierced the fearful hollow of thine ear;
Nightly she sings on yon pomegranate-tree:
Believe me, love, it was the nightingale.
ROMEO:It was the lark, the herald of the morn,
No nightingale: look, love, what envious streaks
Do lace the severing clouds in yonder east:
Night's candles are burnt out, and jocund day
Stands tiptoe on the misty mountain tops.
I must be gone and live, or stay and die.
こういう場面を見せられると、シェイクスピア・ファンとしてはこたえられない。また、物語進行の演出にも工夫がある。おそらく伝統的な舞台演出を参考にしたのであろう。舞台回しの華やかさを強調する一方で、男女の愛のひめやかさもこにくらしく演出している。そのため、この不運な男女は、運命の糸に導かれるように破滅していく過程が、自然に観客に迫ってくるのである。
ラストシーンも、男女の死を悲しむ両家の人々が、大公の中添えを得ながら和解するところで終わっている。つまり、なるだけ手を抜かないように演出しているわけだ。
この劇の最大のポイントは、ジュリエットがロメオと結ばれたいために、決死の覚悟を表明するところで、そのさいジュリエットは、
If all else fail, myself have power to die.
というのだが、この言葉があるために、彼女が死を選ぶ場面が生きて来る。その場面の生き生きとした切迫感を、この映画は心憎いほど切実に演出している。
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