「雨の木」を聴く女たち:大江健三郎を読む

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「『雨の木』を聴く女たち」は、相互に関連しあう四つの短編小説と、一つの中編小説からなっている。そのどれもが「雨の木」という言葉をタイトルの中に含んでいる通り、この五つの小説群は「雨の木」をめぐって展開していくのである。

この小説集の語り手は、雨の木は暗喩だと、最初の短編小説に言及しながら言っている。何の暗喩なのか。語り手はあまり説得力のある説明はしていないのだが、ある種の宇宙モデルの、それは暗喩らしい。その宇宙モデルとは、「自分がそのなかにかこみこまれて存在しているありかた、そのありかた自体によって把握している、その宇宙」をこの雨の木が示しているということらしいのだ。そしてそのモデルには、「人が死にむけて年をとる」という、単純だが動かしがたい真実が込められているとも語り手はいうのである。

この雨の木のイメージはまた、宇宙樹のイメージとも結びついている。宇宙樹自体は、地上を天上と結びつける媒介者としての役割を持たされているが、この小説の語り手にあっては、それは死と強く結びついている。雨の木は人を死に向かって招き寄せるものなのだ。どうしてそうなるのか。それは、雨の木のイメージが喚起する暗喩の中に死のイメージが組み込まれていることにもよるが、それ以上に、雨の木の形そのもののなかに、死を招きよせるような要素があるからにほかならない。

このことを理解するためには、小説集の冒頭で描写された雨の木のイメージを思い起こす必要がある。第一番目の小説「頭のいい雨の木」で描写された雨の木のイメージは次のようなものである。

「『雨の木』というのは、夜中に驟雨があると、翌日は昼過ぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう」

雨を降らせるほどだから、雨の木とは巨大な木なのである。語り手はその木を、インドボダイジュではないかと推測している。というのもかれは、その木の存在を暗闇のなかで感じたにすぎず、実際にそれを見てはいないからである。それを見る前に語り手は、不可解な出来事によって、その木から引き離されてしまうからだ。それでもその木のイメージは、なんとなく語り手の心のなかに像を結ぶのだ。その像はおそらく、インドボダイジュのイメージを帯びているのだろう。筆者はこのインドボダイジュを見たことはないが、ドイツボダイジュならベルリンのウンター・デン・リンデン通りで見たことはある。たしかに、巨大になるべき素質をそなえた、それは木であった。

ともあれ、小説のこの部分の、この言葉は、語り手が参加した精神病院でのパーティの席上、その病院の庭に立っている巨木、それは夜の暗闇につつまれて全体像が見えないのだが、その巨木を説明しながら発せられた言葉である。そんな木のことだから、「その葉の茂りの下は、穏やかな心で首を吊るのにふさわしい環境ではあるまいか」と、この小説集の語り手は、第三の短編小説「『雨の木』の首つり男」のなかで語るのだ。

ところでこの小説集は、第一の小説では「雨の木」のイメージを、あたかもソナタが主題を提示するようにして示し、その後で三つの短編小説が続くのだが、二番目と四番目の短編小説は、語り手とその友人高安カッちゃんをめぐるエピソードを、三番目はメキシコで知り合ったカルロスというペルー人と語り手とのかかわりを描いている。いづれの短編小説も、死に向って生きている人間たちをテーマにしているのである。

高安カッちゃんは、語り手とは大学の同級生という間柄で、永いインターバルをおいて、ハワイで再会した。そこで二人の間に奇妙な友情の交換がなされるわけだが、その挙句に高安カッちゃんは自殺してしまうのだ。自殺の理由はあまりはっきりしない。ただ、高安カッちゃんには、「宇宙のへりの鷲のはばたき」のイメージがあって、そのイメージから自分が排除されていることが、どうもかれの絶望につながったようなのであると小説の文面からは伝わって来る。

高安カッちゃんには、ペネロープ・シャオ=リンという名の中国系アメリカ人女性が愛人としてかかわっていて、その女性を語り手は高安カッちゃんに倣ってペニーと呼んでいるのだが、そのペニーと初めて出会ったときに、語り手は高安カッちゃんから彼女を高級娼婦だと紹介され、是非彼女と一発やるように勧められる。だが、語り手はそういう気分にはなれないし、当のペニーもそれを望んではいない。

こんな具合で、高安カッちゃんが生きている間は、語り手はペニーを抱くことはなかったのだったが、高安が死んだ後を受けた第四番目の小説の中で、語り手はペニーを抱くことになる。というか、ペニーに抱いてもらうのだ。ペニーは、高安カッちゃんが死んだ後、何人かの男とセックスをしたが、どれとも満足できるセックスはできなかった。そこで、高安カッちゃんと同じ日本人となら、満足できるセックスができるのではないかと思って、語り手を誘惑したのだったが、やはり語り手との間でも満足することができなかった。高安カッちゃんには、他の人にない独特のものがあったのだ。

この四番目の小説は「さかさまに立つ『雨の木』」と題されていて、その理由は、雨の木が、上に上るにしたがって、上る人には下界への下降感をもたらすところにあるというのだが、それはともかくこの小説は、音楽家のTさんへの言及から始められている。Tさんとは武満徹のことである。武満が、大江のこの小説集の中の第一の小説にインスパイアされて「雨の木」と題する曲を書いたというのだ。その話題を冒頭において、小説が展開してゆくわけだが、同じような装置は第三の短編小説「『雨の木』の首吊り男」でも組み込まれている。そこには文化人類学者のYさんというのが冒頭に出て来るのだが、それは山口昌夫のことである。大江は山口昌夫の説を気に入っていたようなので、敬意を示す意味合いで、自分の小説のなかにかれを登場させたのかもしれない。しかし、Yさんは、小説の筋書きには何らの役割も果たしてはいないのだが。

Yさんを登場させたのは、この小説の主人公であるメキシコに住んでいるペルー人カルロスが、語り手とYさんとの共通の友人だからということになっている。このカルロスと思しき男は、「同時代ゲーム」の冒頭付近の場面でも出て来るので、大江としては、実際に交際していたペルー人をモデルにしているのかもしれない。大江の小説は、虚構と現実とが入り乱れていると評判なので、そういう見方も成り立たないわけではない。

そのカルロスは、小説のなかで死ぬことはないが、重症の癌になって死にそうだということにはなっている。この男は肉体的な苦痛が苦手で、癌で苦しむくらいなら、首を吊って死んでしまいたいと願っている。その場合にどんな死に方がふさわしいか。カルロス自身がそう言っているわけではないが、前後の文脈からして、木に首を吊って死にたいと願っているようなのである。もともとそういうイメージをカルロスにもたらしたのは語り手だった。語り手は、自分の家の中に梁を露出させていないのは、それに縄をかけて死ぬことを防止すべく、妻が図らったからだと、カルロスに言ったことがある。カルロスはその話をよく覚えていて、自分もそのようにして死にたいと願ったわけであろう。梁のイメージが、雨の木のイメージに移行しているところが、ちょっとくせものかもしれないが。






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