感染列島:瀬々敬久

| コメント(0)
sese01.kansen3.JPG

瀬々敬久の2009年の映画「感染列島」は、感染症によるパンデミックを描いた作品である。この映画が公開されたのは、2009年の1月だが、その年の春頃から豚インフルエンザが世界的に流行し、一年近くにわたって猛威を振るった。その規模や深刻さから、国連がパンデミックに指定したほどだった。そのパンデミックを、この映画は先取りしたような形で描いていたというので、世界的な注目を浴びた。

この映画は、おそらく数年以前に発生した鳥インフルンザによる騒ぎを念頭においているのだろう。鳥インフルエンザが猛威を振るった時には、日本中がパニックに陥ったものだ。その騒ぎがもっと大規模になると、どのような事態になるか、それをシミュレーションしたというのが、この映画のそもそもの意図だったのではないか。

映画は、突然発生した感染症の爆発に立ち向かう医師たち描く。その感染症は、日本のある地方都市で始まったのだが、その直前に鳥インフルエンザの発生が確認されていたので、医師たちは当初、それを鳥インフルエンザと思い込んでしまった。ところが事態の進行につれて、感染症の正体は、鳥インフルエンザではなく、エボラ出血熱に症状の似た新手の感染症だということがわかる。その感染症は非常に高い致死率で、最終的には、日本全国で、3950万人が発症し、1120万人が死んだとアナウンスされる。

この感染症との闘いの最前線には、最初に患者を診察した医師(妻夫木聡)や、WHOの女性医療スタッフ(檀れい)がいる。妻夫木は、その患者を最初に診察した時には、軽い風邪くらいに思ったのだったが、次に診察した時には、すでに手の施しようもないくらいに症状は悪化していて、あっという間に死んでしまうのだ。しかも目からも出血するような異様な症状で、とても普通のインフルエンザとは思えない。それでも、鳥インフルエンザと受け取ったのは、付近で鳥インフルエンザが発生しており、その鳥インフルエンザに対する恐怖心が、当時の日本人の中に深く植えつけられていたためだというふうに伝わって来る。

前線の病院の医療スタッフは、WHOの指導のもとで、患者の治療にあたる一方、病因の究明や治療方針の確立につとめる。しかし病因はなかなか特定できないまま、有効な治療方法も見つからず、感染は急速に拡大し、死者の数も爆発的に増える。そういう中で、妻夫木は、全力を挙げて病因の解明に努めるのだが、その結果、これはインフルではなく、新手の熱病らしいことがわかる。

妻夫木は、多くの患者を受け持つが、それらが次々と死んでゆくのを見て、心を痛める。また、治療に必要な医療資源が乏しい中で、誰の治療を優先させるか、いわゆるトリアージュの選択に悩んだりする。重傷で生きる見込みのない患者から救命装置を外して、生きる見込みの高い患者に与えるといった厳しい選択も迫られる。そんな具合にこの映画は、パンデミックに陥った際の、適切な対応はどうあるべきか、といったことも考えさせるように作られている。

映画であるからエンタメの要素もなければならないわけで、その部分は妻夫木と檀の恋愛という形で取り入れている。檀は有能で果断な女医として描かれており、妻夫木を激励する立場にあるのだが、最後には自分が感染して死の床につく。その床の上で、彼女は自分を実験台にして、治療薬の開発に努力するのだ。それは、感染して治癒した患者の血液を輸血するというものだった。この治療法は彼女自身にはきかなかったが、他の患者にはきいたのである。妻夫木は、その治療法で、大事に思っていた少女の命を救ったのだったが、愛する人を失って茫然自失するのである。茫然自失した妻夫木の表情を写しながら映画は終る。

こんなわけで、なかなか見どころの多い映画である。この映画を見ながら思ったことは、ものごとには過去の経験を十分ふまえて臨むのが大事だということだ。過去の経験を十分に踏まえていれば、新しい事態により適切に対応できる。この映画では、過去の経験がトラウマとなって、新たな事態に適切に対応できなかったというふうになっているが、それもまた過去の経験を十分に踏まえられなかったというべきなのだろう。

ところで、今般(2020年)のコロナウィルス騒ぎを見ていると、どうも過去の経験が充分に生かされていないようである。政治指導者は、過去の経験など眼中にないかの如く、いきあたりばったりに対処しているように見える。それでは国民の命は救えまい、と強く感じる次第である。せめてこの映画を見て、過去の経験の重要さを認識すべきなのではないか。





コメントする

アーカイブ