水死:大江健三郎を読む

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大江健三郎の小説世界は、四国の山の中に伝わる伝説を中心にして、いくつかのテーマをめぐって展開するのだが、そうしたテーマの一つに、父親の不可解な死というものがある。そのテーマを大江は、「みずから我が涙をぬぐい給う日」の中で初めて取り上げたのだったが、最晩年の小説「水死」は、それを新たな視点から本格的に展開して見せたのであった。

この小説を大江は七十四歳で書いた。父親が死んだのは五十歳の時だ。その五十歳の父親の気持を、七十四歳になった息子が追体験するという形で小説は展開していく。その追体験を作家は、小説に書くつもりなのだが、結局はそれを断念する。母親が強く反対していたということを思い知ったからだ。それに、父親の死の真相は、自分の力だけではわからない。それについて多少は知っているはずの母親は、最期まで息子に明かさなかった。だから納得のいく形で、父親の死を小説に書くことはできないのだ。

「みずから我が涙をぬぐい給う日」の中では、父親は敗戦の日の前後に、軍の将校たちとともに決起し、軍資金を集めるためであろう、銀行に押し入ったところを官憲に射殺されたというふうに設定していた。父親たちが決起したのは、敗戦をすなおに受け入れない血気盛んな日本人がいたということを、後世に知ってもらうためであって、決起の成功を信じていたわけではなかった。

この小説の中では、父親は水死したということになっている。しかも前後の状況からして自殺を強く疑わせる。そんな父親の死の真相を知り、それをもとに小説を書きたい、とうのが語り手たる大江の意図なのである。もっとも現実の大江ではなく、あくまでも虚構された大江であるが。この小説においては、大江は自分自身や自分の周辺の人物(家族と友人)をかなりリアルに近い線で描いているのだが、父親の死とか、うないこを始め登場人物の大部分はフィクショナルに描いているのである。

父親が死んだのは大江少年が十歳の時。少年は父親の水死した日に、父親がボート(短艇)で川に乗り出す現場に立ち会っていた。少年も父親と一緒にボートに乗るつもりでいたのだが、結果的には父親一人だけでボートに乗り、少年は取り残される。そして翌日父親の水死を知ることになる。その時間的な継起の順序を、少年は部分的に覚えているだけで、全貌はわからない。できればその全貌について、知っているはずの母親から聞きたかったのだが、母親は何も言わないで死んだ。ほかに手がかりとなるものと言えば、父親が遺品として残した赤い皮のトランクだけだ。そこに父親が書いたメモがあるはずで、そのメモを読めば、死を決意した父親の気持がわかるかもしれない。しかしそのトランクの中身は、母親が生きている間に始末したらしく、何らの手がかりも得られなかった。

そんなこともあって、作家は父親の水死の謎を小説に描くことを断念するのだが、それにはほかにも理由があった。母親の強い反対である。母親としては、夫の死はスキャンダラスなものに思われた。そのスキャンダラスな夫の死を、息子である作家が小説のなかで取り上げるのは、一家にとっての恥だと言う意識が働いて、息子には小説の手がかりになるものを与えようとはしなかったのだ。そんな母親の気持を、妹のアサも理解していて、兄が父親の死を小説に取り上げることには反対なのである。その小説を作家は水死小説と呼んでいる。その小説は、この「水死」と題された現実の小説の中では書かれることはなかったわけだが、しかし現実の大江はそれを書いたわけである。しかも小説の中の作家と同じ年齢である七十四歳で。

小説の中の作家の名は長江古義人である。これは「取り替え子」以来のすべての小説で、大江が自分の分身である語り手に付けた名前である。大江の家族たちも、「取り替え子」以来同じ名前で出て来る。妻は千樫、障害のある息子はあかり、その妹は真木といった具合だ。千樫の兄の吾良も、言及というかたちで出て来る。また、「取り替え子」で初めて登場した謎の人物大黄も出て来る。この人物は、作家の父親に心酔していたということになっていたが、作家に対しては複雑な気持ちを持っているようで、この小説の中では不可解な言動をする。そして最後に作家に対して、父親の死の真相の一端をあかすのである。それによれば父親は、自分の霊魂を息子に引き継ぎたかった。そのためには一緒にボートに乗りこんで、父親の死の瞬間に、その霊魂が息子の体に入らねばならない。父親は、浮袋を入れたトランクをボートに積み込んだのだったが、それはボートが転覆した後、息子がトランクにつかまっておぼれないようにするための配慮だったのだ。大黄がその話を作家にしたのは、自分も死を覚悟した時だった。大黄がなぜそんなわかりにくい言動をしたのか、小説の文面からは伝わってこない。そこは読者の想像力で埋めてもらいたいと言っているかのようだ。

この小説にはまた、うないこをはじめとして、前衛劇団の若者たちが登場する。その劇団は、古義人の小説を演劇化してきたのであるが、できたら古義人の新しい小説の創作に自分らもかかわりたいと思っている。できたらその新しい作品をもとに舞台を構成したいとも考えている。古義人のほうでは、そんな彼らの意向を受け入れ、協力する姿勢を見せるのだが、結局は水死小説が書かれることはなかった。そのかわり、うないこが別の形で演劇を構成し、それに古義人もかかわることになる。それは四国の山の中に伝わるメイスケとその母親をめぐる伝説を舞台に取り込もうというものだった。その部分から、小説は思いがけない展開を見せることになる。それについては別稿で言及したいと思う。






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