広河隆一「パレスチナ」

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著者は中東問題の専門家で、1967年の第三次中東戦争、1982年のレバノン戦争、2002年の大衝突のそれぞれの現場にいたそうだ。つまり、中東問題を身を以て体験したわけだ。その体験をもとに著者が感じたものは、イスラエルへの強烈な違和感というものだったようだ。イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人を相手にしてきたことは、著者にとっては正義と人道に悖ることと映った。そんなわけでこの本は、イスラエルのユダヤ人への批判意識とパレスチナ人への同情に溢れている。

この本を読むと、イスラエルのユダヤ人が1948年の「建国」(それをパレスチナ人は「大災厄」と呼んでいる)以来、パレスチナ人に対して一方的に迫害・抑圧を行ってきたプロセスがよくわかる。ユダヤ人にはパレスチナ人と共存する意志はなく、できればパレスチナ人を地上から抹殺したいと願っているように思わされる。抹殺と言っても、さすがに物理的に抹殺するわけにはいかないから、パレスチナ人が他のアラブ諸国に溶け込むように仕向けているということらしい。そうすることで、パレスチナ人のパレスチナ人としてのアイデンティティを突き崩せば、ユダヤ人の安全が保障されると考えているように、伝わって来る。

ユダヤ人がパレスチナ人をどう見ているか。著者はユダヤ人の子どもに聞いてみた。するとその子どもは、パレスチナ人は人間ではないから、殺してもいいのだと答えたそうだ。おそらくユダヤ人の大人たちからそのように教育されたのだろう。そのやりとりを著者は、私見をまじえずに淡々と記している。それがかえって読者に不気味さを感じさせる。

ユダヤ人がパレスチナに建国するにあたっては、ユダヤ人の民族的な意思のほかに、西欧の列強の思惑も働いたと著者はいう。大戦後ホロコーストを生き残ったユダヤ人たちを、西欧諸国はやっかいものと受け取った。だからかれらを自国に受け入れるよりは、パレスチナに行かせたほうが得策と考え、イスラエル国家の建設を後押ししたというのだ。パレスチナ人のことは、ほとんど、あるいは全く、考慮されなかった。

そのパレスチナ人を、ユダヤ人はこの世に存在しないもののように扱った。無論物理的には存在しているのであるし、抵抗をしたりもする。しかし基本的には、ユダヤ人たちはパレスチナ人を先住民族として扱うのではなく、まるで無人の荒野を切り開いて建国したというような言い方をする。かつて欧米からアメリカ大陸へやってきた西洋人が、先住民族(インディアン)の存在を無視して、あたかも無人の荒野を切り開いたと強弁した、そのやり方を真似したわけである。そんなユダヤ人たちをアメリカ人は、弟のように気づかっている。

イスラエルを建国したのはシオニストたちだった。そのシオニストは労働党を通じて長らくイスラエル政治を牛耳ってきたが、1970年代の後半にベギンが登場したことを契機にして、リクードの勢力が強まった。リクードの政策は、パレスチナ人を存在しないかのように扱うのではなく、物理的に存在させなくするというものだった。だがそんなことは国際社会の理解を得られない。そこでリクードの政治家たちは、ことあるごとにパレスチナ人を挑発して戦争をしかけ、かれらを物理的に抹殺しようとしてきた。

それに対してパレスチナ人も、インティファーダなどを通じて抵抗したが、その抵抗は次第に弱々しくなっていった。この本がカバーしているのは2002年頃までだが、その時点ではまだパレスチナ人による抵抗の動きはやんではいない。だが、それ以後次第に抵抗が弱まり、今日では全く押さえつけられているような状況である。それにはトランプのユダヤ贔屓も一役買っているようだ。

著者は、パレスチナ問題の平和的解決には懐疑的だ。というより、この問題に解決がある可能性に対して否定的に見える。おそらく将来的には、パレスチナ人はアラブ諸国家の中に吸収されていくか、かつてのユダヤ人がそうだったように、世界中に離散していくか、そのどちらかだろうと考えているようだ。いまのように、ガザや西岸のゲットーのような空間に、いつまでも抑圧されながらとどまり続けるということは、考え難いのではないか。歴史が教えているのは、強者が勝つ、ということだ。そしてこのケースの場合、強者はユダヤ人であり、弱者はパレスチナ人なのである。





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