強姦天国日本:大江健三郎「水死」

| コメント(0)
小説「水死」のメーンテーマは、父親の水死をめぐる語り手たる作家の探求であるが、それと並行する形で、若い演劇者たちの活動がある。その中でも「うないこ」と呼ばれる女性が、大きな意義を持たされている。この女性は冒頭の部分で現われ、以後語り手たる作家のまわりに居続けたあげく、小説の最後の部分では、意外な役割を果たすのである。その役割というのは、世界中の読者に向って、日本がいかに強姦者にとって都合のよい社会であるかということを、身を以て訴えることなのである。つまり自分自身が強姦されるという形で。

「うないこ」というのはあだ名で、本当は満子という名前がある。しかし小説の中では、語り手もほかの登場人物も彼女を「うないこ」と呼んでいる。振り分け髪を「うない」というが、その振り分け髪のイメージから「うないこ」と綽名されたのだった。「うない」は由緒ある古い言葉で、万葉集にも「うないおとめ」の話が出て来る。

うないこは、穴居人という奇妙な名称の劇団のメンバーである。その劇団は、四国の松山を拠点にして、長江古義人の作品を演劇化してきた。その流れで、古義人の新作を演劇化したい。それもただ受け身でやるのではなく、その新作の創造に自分らも関わりたいと考えている。そんな意図を以てかれらは古義人に接近するのだが、うないこはその先兵役を務めて、まず小説の冒頭において、古義人に印象的な接近の仕方を見せるのである。

かれらが古義人とともに創造しようとしたのは、水死小説というものだった。古義人の父親の不審な死をテーマにした話だ。ところが古義人は、途中でその計画を投げ出してしまう。死んだ母親やまだ生きている妹が、強く反対したからだ。死んだものは死後にまでその意思を残し、生きているものは生きている資格で反対の意思を示したのだった。その意思にはじかれるようにして、古義人は水死小説の計画を断念するのである。

うないこは、水死小説の計画が破綻すると、別の方向に活路を設ける。古義人の育った谷間に伝わる話を演劇化しようというのである。その話というのは、大江の作品におなじみの、メイスケさんとその母親にまつわる話である。その話の中で、一揆が収まった後、メイスケ母が幼いメイスケとともに山に上って行く途中、藩の若侍たちに待ち伏せされ、メイスケは穴に放り込まれて殺され、メイスケ母は輪姦される。その輪姦の場面を、彼女は生々しく演じようと考えるのである。

彼女の演劇のスタイルは、一風変わっていて、単に役者が演じるだけではなく、観客を巻き込んだものだった。劇の進行にともなって、役者が観客と論争をし、論争に負けたほうに死んだ犬の人形が投げられるというものだ。だから彼女は自分たちの芝居を、死んだ犬の芝居と呼んでいる。うないこは、その様式でもって、メイスケ母の受難を演じようというのだが、その受難に自分自身の受難を重ねたいと考えるのである。というのも、彼女にも強姦された過去があった。その時の惨めな気持ちを、舞台の上に再現し、強姦の暴力的な意義について、人々に考えて欲しいというのだ。

うないこを強姦した者は、彼女の叔父だった。彼女は十七歳という思春期の頃に、寄寓していた叔父の家で、叔父から強姦されたうえに、妊娠させられ、無理やり堕胎させられたのだった。その経緯は全く一方的なもので、彼女は叔父の妻はもとより、自分自身の両親からさえも、見放されてしまったのである。だから、叔父によって暴力的に強姦されたばかりか、家族からも見放されて、天涯孤独といった感情を味わねばならなかった。そのことが彼女にはくやしい。そのくやしい思いの一端なりとも、大声で訴えたい。そんな彼女の切ない思いが、彼女を新しい舞台へと駆り立てるのだ。

ところがそこに妨害が入る。まず、叔父の妻という者が現れて、うないこをおびやかす。うないこが舞台の上で叔父を攻撃するという計画を、どこからか聞きつけたのだ。妻は一方的にうないこを攻撃する。彼女にとっては、夫の社会的な名誉が傷つけられることが我慢ならないのだ。自分の姪にあたる女性が、自分の夫によって強姦されたことは、彼女には全く問題にならない。問題になるのは、夫を含めた自分の家族の名誉だけなのだ。その言い分を聞かされると、どんな読者でも吐き気がするほどいやな気分になることは間違いない。

ついで叔父自身が現れる。それもやくざ風の男たちをともなって。叔父はうないこを監禁するばかりか、古義人やかれの息子までも監禁する。監禁して、舞台が事実上成り立たないようにするわけだ。そればかりではない、叔父はうないこを、改めて強姦するのである。それも古義人が寝ている部屋のすぐ近くで、古義人はその様子を音に聞くが、自分にはなすすべもない。ところがそこに大黄が立ち上がり、叔父を拳銃で射殺するのだ。

大黄による叔父の射殺の場面は、小説の中では生々しく描かれていない。間接的に触れられているだけである。だから読者は、空隙を埋めるように、不在の場面を想像で補わねばならない。そこにある種の歯がゆさがあるが、それがあることで、イメージが複雑に屈折して、その分、小説に厚みが出ているとも言えそうである。

ともあれ、大江がこんな話をこの小説に持ち込んだのは、日本では強姦した男は無罪放免になり、強姦された女が二重にいやしめられるということがまかり通っている事態に、憤懣を感じたからであろう。日本社会のそういう体質はいまだに変わっていない。強姦した男はほとんど無罪放免になるし、強姦された女はふしだらだといって攻撃される。そういう様を見るとつくづく、日本は強姦天国だと思わされるのである。






コメントする

アーカイブ