スピノザ「知性改善論」を読むその三:虚構について

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「知性改善論」の本論は、知性改善のための方法論の論述にあてられている。その方法は、真の観念に基づくことが必須だとされる。前稿で述べたとおり、真の観念は実在的なものであって、単なる空想の産物ではない。空想の産物は、実在性を持たず、したがって偽の観念というのがスピノザの考えである。ところが人間は、この偽の観念に騙されやすい。だから、そうした偽の観念から精神を守るために、真の観念と偽の観念を区別する方法を身に付けねばならない。

スピノザは言う、「真の観念をその他の知覚から区別し分離して、虚偽の観念や虚構観念や疑わしい観念をば真の観念と混同することのないよう精神を調整」することが、方法論第一部の内容であると。そこでまず、虚構観念が検討される。

虚構観念というのは、実在性の根拠を持たない観念のことをいう。そのことをスピノザは次のように説明する。「虚構されているのはただその存在だけであり、しかじかの存在状態にあるものと虚構されている当の事物は理解されているか、あるいは理解されていると想われているような場合である。例えば私は、私の知っているペテロが家に帰るとか、私を訪れるとか、それに類したことを虚構する。ここで私は、こうした観念が何に関わるのであるかをたずねてみる。するとそれは、ただ可能的なものごとにかかわるだけであって、必然的なものや不可能なものには関わらない、ということがわかる」

スピノザは続けて言う、「私が不可能と呼ぶのは、それが存在するためにはその本性が矛盾を含むもののことであり、必然的なものとは、それが存在しないためにはその本性が矛盾を含むもののことである。また、可能なものとは、それが存在してもしなくてもその本質そのものは本性上矛盾を含まず、その存在の必然性ないしは不可能性が、われわれがその存在を虚構しているかぎりわれわれには知られていない原因に依存しているもの、のことである」。譬えていえば、不可能のものとは熱い氷であるとか冷たい火といったものであり、必然的なものとは地球は存在するといったことである。何故なら存在しない地球は考えられないから。また、可能なものとは、ペテロが私を訪れるといったことである。ペテロが私を訪れることには必然性はないし、かといって不可能でもない。

スピノザは、人がものごとを虚構できるのは、その不可能なことをも必然なことをも知らない限りにおいてである、と言っている。ということは、不可能なことを知りながらあるものごとを想像するのは、虚構ではなく、ただのナンセンスだとスピノザは考えていたことを意味する。人は無意味なことを想像すべきではないというわけである。こう言うことでスピノザは、ウィトゲンシュタインの主張を先取りしていることになる。ウィトゲンシュタインは、無意味なことは思うべきではないと強調した。そういうことで神秘主義に拒否のサインを送ったわけである。

以上述べた虚構は、可能的なものについての虚構であったが、虚構にはほかに、「本質だけに関わる、あるいは、本質とともに、ある現実性ないし存在にも同時に関わるところの虚構」がある。こういう虚構は、対象を明晰かつ分明に理解しないことから生じる。「この種の虚構について特に留意されるべきことは、精神は、理解することがより少なく感覚的に知覚することがより多ければ、それだけ大きな虚構能力を持ち、反対に、より多くのものを理解すれば、その虚構能力はそれだけ小さくなる、ということである」

それゆえ、事物を明晰にかつ判明に知覚していさえすれば、何事かを虚構するという恐れはまったくないということになる。人が虚構するのは、対象について、混迷した知覚をもっている場合であるが、「混迷とは、精神が、一つの全きもの、あるいは多くの要素から複合されているものを、ただ部分的にしか知らず、既知のものと未知のものとを区別しないことから、さらにはまた、一つの同じものの中に包含されている多くの要素に、区別もせず一度に目を向けてしまうことから由来」するのである。

ここから次のことが帰結するとスピノザは言う。「まず第一に、観念がもっとも単純なものの観念である場合には、それは明晰で判明なものでしかありえない。何故ならこうしたものは、部分的に知られるものではなく、全体がそっくり知られるか、さもなければ、かいもく知られないはずであるから。第二に、多くの要素から複合されているものであっても、これを思惟の上ですべてのもっとも単純な諸部分に分割し、その一つ一つに注意を向けるなら、この時にもすべて混迷はなくなるのである。第三に、虚構は単純なものではありえない。それが生ずるのは、自然のうちに存在するところのさまざまの事物と活動についてのさまざまの混迷した観念を複合すること、より正しくいえば、こうした様々の観念に承認することなしに眼を向けてしまうこと、からである。なぜなら、もし虚構が単純なものであるとするなら、それは明晰で判明、従って真なるものであろうし、また判明な観念の複合から生じるものならば、それらの複合物だってこれまた明晰で判明、従って真であるはずだから。例えば円の本性を知り、また、四角形の本性を知った後には、もはやわれわれは、この二つを複合して円を四角形にしたり、あるいは魂を四角形にしたり、これに類したことはできないのである」

以上、虚構がどのようなものかについて明らかにした後でスピノザは、虚構が真の観念と混同されないようにするためのコツのようなものを紹介する。まず第一の虚構、すなわち可能なものについての虚構は、そのものの存在が永遠の真理であるかぎり、そうしたものについては何も虚構できない。また、そのものの存在が永遠の真理でないときは、そのものの存在とその本質とを照合し、同時に自然の秩序に注意を向けさえすればよい。そうすれば、真の観念と虚構とを混同することはない。第二の虚構、すなわち混迷した知覚によってもたらされる虚構については、単純なものは虚構されないのであるから、その対象を単純なものに分けたうえで、それに注意を向けるべきである。そうすれば、真の観念を虚構と混同することはない。

スピノザはそう言って、虚構と真の観念との区別を強調するわけだが、それは我々が真の観念をもとにして、正しい認識なり推論をできるようになるための条件としてであった。ところで、「虚構」という言葉であるが、これは普通の日本語では、意図的に作られたというニュアンスが強い。だがスピノザがここで「虚構」と言っているのは、意図的な虚構というよりは、認識における誤謬のことをさしているようである。それは、第一の虚構については、「その不可能なことをも必然なことをも知らない限りにおいてである」といっていることから、また、第二の虚構については、「単純なものは虚構されない」と言っていることから、それぞれ帰結されるように思われるのである。







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