大乗起信論を読むその七:発心について

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分別発趣道相とは、さとりに向けて発心するということである。その発心には三種ある。第一は信成就発心、第二は解行発心、第三は証発心。第一の信成就発心とは、信心の成就を通じて、さとりに向けて発心することである。この発心は、主に凡夫のためにあると言ってよい。凡夫が発心するためには、自己の力だけでは無理で、仏の力を借りなければならない。それも厳しい修業の果てにやっと仏に出会い、仏に仕えることで信心を養わねばならない。だが、仏にはそう簡単には会えない。通常の場合には、一万劫の時間がかかる。一劫とは人間の一生に相当する期間で約百年に相当する。その一万倍もの時間を生身の人間が生きることはできないが、仏教では、人間を含めて生き物は輪廻転生を繰り返すと信じられているので、その一万劫の間に、何度も生まれ変わるということになる。生まれかわりを繰り返しながら、一万劫たってやっと仏に出会えるのである。これは平均の場合であり、中にはこれより多くかかる場合もあれば、短く済む場合もある。それは生きている間の心掛け次第である。

このようにして信心を成就して発心した者は、菩薩となる。菩薩になれば絶対に(凡夫へ)後戻りはしない。あとは如来への道が開けているのみである。そのような地位を正定衆という。それらのものは、如来の系列に属するものとして、本来持っているさとりの因(仏性)に相応しい者とされる。

発心には三種ある。一つは直心、一つは深心、一つは大非心である。直心は心の真実のあり方を思い浮かべ、深心はすべての善行を集め積もうとし、大非心はすべての衆生の苦悩を除き去ろうとする。

衆生にはもともと仏と同じさとりの相(如来蔵)があると言われるのに、なぜそれだけでは足らず、さまざまな善行や修業が必要なのか。それは、マニ宝石が、それ自体では輝く本質を備えていながらも、研磨することで初めて光り輝くのと同じことで、さとりの本性を持っていても、それを薫習しなければ、心は浄められないのである。

さとりを得るための、修業の方法には四種ある。第一は、行根本方便。法を正しく見ること、すなわち、一切の現象は本来仮象であると感得し、生死に執着しないこと、及び、大非心を起して衆生の救済につとめ、自分だけが涅槃に安住しようとはしないことである。

第二は、能止方便。悪行防止のための修行法、すなわち、自分の行為に責任を持ち、悪行をしないことである。第三は、発起善根増長方便。積極的に善根を起し、さらに増長させるような修行法である。第四は、大願平等方便。他者を救おうとする大願を起して、誰に対しても平等に接することである。

以上のような修業の結果、菩薩は究極的なさとりを得て、如来になる。それには、手本がある。すなわち釈迦の生きざまである。その釈迦のような生きざまを、凡夫の誰でも、可能性としては実現できるというのが仏教の考えである。さて、その生きざまを、八相成道という。釈迦の生涯を八段階に区分したものである。すなわち、①さとりの直前の最後の生をこの娑婆世界で生きるべく、兜率天から下ること、②白象に乗って摩耶夫人の胎中に入ること、③摩耶夫人の胎中で生育すること、④摩耶夫人の胎内からこの娑婆世界に生れ出ること、⑤さとりを求めて出家すること、⑥六年の修行の後、さとりを実現すること、⑦さとりを開いた後、四十五年間衆生を教化すること、⑧八十歳にして涅槃に入ること。つまり、さとりを開いたといって、すぐさま涅槃に入るのではなく、衆生を教化してから、涅槃に入るというのが、大乗仏教における、さとりの考えの特徴なわけである。

以上は、凡夫がどのようにしてさとりを開き、最終的に涅槃の境地に入っていくかについての見取り図のようなものである。これ以外に起信論は、菩薩になりたてのもののための修行法、および菩薩として経験を積み、如来に近づいているもののための修行法も、わざわざ述べている。まず、菩薩になりたてのもののための修行法は、解行発心という。菩薩は凡夫に比べればはるかにさとりに近い状態であるので、修業の方法もそれにふさわしく、心の真実のあり方に沿ったものとなる。具体的には、六波羅蜜の実践という形をとる。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍耐、精進、禅定、智慧のことをさす。これらを実践することで、さとりの境地に至るのである。

また、菩薩の修行を積んで如来に近づいている者のための修行は、証発心という。証とは体得という意味だが、何を体得するのか。心の真実のあり方である。心の真実のあり方は、(如来蔵として)本来誰にでも備わっているのだが、根源的無知のせいで、衆生はそれを理解できない。ところが、修業を積んだ菩薩の段階に至ると、これが理解できるようになる。それを理解・体得することで、菩薩は如来へと飛躍できるのである。

さとりの瞬間に、根源的無知はたちまちに消え、あらゆることが、その本来の姿として見えるようになる。その知恵を一切種智という。あらゆる種類について知る知恵という意味である。本来の姿というのは、日常的意識に現われる仮象としての姿ではなく、心真如が捉えるところの、分別以前の姿である。これを諸法の性あるいは法性という。





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