イスラエル建国と第一次中東戦争:イスラエルとパレスチナ

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第二次世界大戦の終了に伴う国際問題の一つとしてヨーロッパでホロコーストを生き延びたユダヤ人の処遇問題があった。特にアメリカがこの問題に熱心になった。理由は明確ではないが、生き残りのユダヤ人をアメリカに受け入れるのがいやだったからだという説もある。ともあれアメリカは、ヨーロッパの生き残りユダヤ人をパレスチナに移住させることを主張した。一方パレスチナの委任統治の主体であったイギリスは、その要求を拒否した。従来アラブ側との間で結んでいた約束(パレスチナへのユダヤ人移民の制限)がその理由だった。だがイギリスは、パレスチナに対していつまでも責任を持つつもりはなかった。そこでパレスチナ問題の解決を、できたばかりの国連に丸投げした。

国連は1947年11月29日に、パレスチナ分割決議を採択した。パレスチナの地を、ユダヤ人の居住区域とアラブ人(パレスチナ人)の居住区域とに分割し、エルサレムについては引き続き国連が信託統治するという内容であった。この決議によって、パレスチナはユダヤ人国家とアラブ人国家に分裂することに定められたのである。当時パレスチナの地にユダヤ人が所有していた土地は全体の6パーセントでしかなかったが、そのユダヤ人に52パーセントの土地が割り当てられた。人口比から言ってもユダヤ人の割合は、全体の一割程度だったのである。(分割の内訳は別図1のとおり)

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(別図1 Wikipediaから引用)

これに対してアラブ側が反発したのは当然だった。とくにユダヤ人に割り当てられた土地に住んでいたアラブ人(パレスチナ人)にとっては、どうしても納得できないものであった。にもかかわらず、この理不尽な分割案が国連を通ったのは、それなりの理由があったようである。一つは、ホロコーストを生き延びたユダヤ人に対しての同情が国際的に広がっていたことだ。ユダヤ人が600万人も殺されたのは、かれらが自前の国を持たなかったからで、そうした悲劇を繰り返さないためには、ユダヤ人に国家を持たせてやる必要がある。そういった理由で、パレスチナにおけるユダヤ人国家の樹立というアイデアが国際的に支持されたという事情があった。しかしそれはパレスチナにもともと住んでいたアラブ人にとっては降って湧いたような話だ。自分たちには何らの落ち度はないのに、ユダヤ人のために土地を追われるのである。

もう一つの理由として挙げられるのは、イスラエルとヨルダンとの闇取引だ。これは、ヨルダン国王アブドゥッラーがイスラエルとの間で結んだ密約で、国連がアラブ人に割り当てた土地のうち、ガリラヤ地方など一部をイスラエルに与える一方、ガザはエジプトに、ヨルダン川西岸とエルサレムはトランスヨルダンに帰属させるというものだ。第一次中東戦争後に実際そのとおりになったことから、一定の説得力を持っている。

アメリカやヨーロッパ諸国もこの分割案に大賛成だった。これらの国にとって、ホロコースト生き残りのユダヤ人は厄介者であって、できれば国外に消えて欲しかった。パレスチナはその消えていく先として最も望ましい土地だった。というより、そこ以外には考えられなかったのである。一方、ユダヤ人を押し付けられた上に、自分たちが追われる立場に立ったアラブ人側は、とても納得できる話ではなかった。しかし国連の場では数がものを言った。少数派のアラブ側の意見は無視され、欧米諸国やアメリカの恫喝をうけた周辺国は、この分割案に喜んで賛成したのである。パレスチナのアラブ人のことは、他人のこととして勘定に入れるいわれはなかったわけである。

ユダヤ人たちは、イギリスのパレスチナ信託統治が終了する1948年5月15日に先立ち、前日の5月14日にイスラエル国家の宣言をおこなった。その日をユダヤ人たちは自分たちの国家建設の記念日としているが、パレスチナ人はナクバ、すなわち大災厄の日としている。この建国に先立ち、ユダヤ人たちは国家建設の基本計画を立てていた。ダーレット計画と呼ばれるものだが、それは国連によってユダヤ人に割り当てられた土地を制圧し、そこからアラブ人を追放する一方、ガリラヤ地方などアラブ人に割り当てられた土地まで略取しようというものだった。そんな思惑があったからこそ、イスラエルは建国にあたって国境を明示しなかったのだと思われる。国境を明示すれば、ガリラヤなどを略取する根拠がなくなるからだろう。

パレスチナの分割案が国連によって採択されるや、まずパレスチナのあちこちで武力衝突が起った。これをユダヤ人はアラブ人による挑発だと主張し、国際社会も、ユダヤ人への同情心からそれを信じたのだったが、実際には、ユダヤ人がダーレット計画にもとづいて、アラブ人を追放したことに伴う衝突と考えたほうが自然だ。ついで、ユダヤ人がイスラエル国家の樹立を宣言すると、イラク、シリア、ヨルダン、エジプト、サウジアラビア、レバノン各国からなるアラブ連盟にパレスチナ人を加えた勢力が、イスラエルへの攻撃を開始した。第一次中東戦争の勃発である。この戦争に対してユダヤ人側は、ユダヤ国防軍に結集して、民族の運命をかけて戦ったのに対して、アラブ側は相互の連携とか結束に欠け、ユダヤ人の軍事力にはかなわなかった。とくに当事者のパレスチナ人は、少数が義勇軍に加わっただけで、大部分は傍観する始末だった。こうした勢いの違いがイスラエルの勝利に結びついたのだといえよう。

分割統治の決議から第一次中東戦争にかけて、夥しい数のアラブ人がパレスチナから追われて難民となった。かれらパレスチナ人を追放するために、ユダヤ人はダーレット計画にしたがって周到な戦略を行使した。虐殺テロや強制移住などを通じてアラブ人をパニックに陥れ、かれらを自分たちの土地から追い払ったのである。この時期の様子については、その全貌はいまだに明らかになっていないが、それはイスラエル側の隠蔽が功を奏したからだと言えよう。それでも、この時期のユダヤ人によるアラブ人の虐殺は、全部が隠蔽できるものではなく、一部は明かになっている。例えばエルサレム近郊のディル・ヤシーン村における虐殺では、女子供をはじめ全く罪のない住民百人がユダヤ兵によって虐殺された。また、アインアッセイトネ、サフサ、ドワイマの各村でも、大勢の住民が虐殺されたり、少女が強姦されたりした。ユダヤ人たちは、自分たちがドイツ人から受けた残虐行為の意趣返しとして、パレスチナのアラブ人を虐殺したと思われるような、それは陰惨な出来事であった。

こういうプロセスを通じて、大量の難民が発生したが、その難民がもとの土地へ戻ることをベングリオンのユダヤ人政府は拒否した。こうして今日に至るパレスチナ問題が発生したわけである。ともあれ、第一次中東戦争は、イスラエルの勝利に終わり、イスラエルはパレスチナ全土の77パーセントを略取することができた。これはユダヤ人によるパレスチナへの侵略といってよかったが、(アラブを除く)国際社会はそれを非難するどころかかえって祝福したのだった。というのも、イスラエル国家の成立によって大量のユダヤ人が移入する基盤ができ、それらのユダヤ人たちを送り出す立場の欧米諸国は、厄介払いできることを喜んだからである。(第一次中東戦争後の領土図は別図2のとおり)

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(別図2 Wikipediaから引用)







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