菊とギロチン:瀬々敬久

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瀬々敬久の2018年の映画「菊とギロチン」は、関東大震災後の大正末期の暗い時代を背景にして、女相撲とアナキストの触れ合いをテーマにした作品だ。女相撲とアナキストでは、接点がないように思われるが、どちらも官憲に目の敵にされていたという共通点がある。この映画はその共通点を踏まえながら、権力と庶民との戦いを描いたものである。それに震災直後に起こった朝鮮人虐殺など、当時の日本における異様な出来事をからませている。かなり政治的なメッセージ性の高い映画である。

女相撲は旅芸人の一種で、昭和の前半まで日本各地で見られた。相撲をとって見せるほか、曲芸や舞踏などを披露したという。小津安二郎の名作「浮草物語」にも出て来る。この映画に出て来る女相撲の一座は、十数人の女相撲取りを抱え、関東の各地を放浪しては相撲をとって見せるのである。その一座に、ある若い女が加わる。その女は、死んだ姉のかわりに後妻となった男の暴力に耐えかねて、家を飛び出してこの一座に身を寄せたのであった。一座の女相撲取りたちには、ほかにも不幸な過去を背負った女たちがいた。女相撲とは、そうした不幸な女たちが身をしのぐところだったのである。

一方アナキストたちについて言えば、この映画には、中浜鉄とか村木源次郎といった実在のアナキストが登場する。実在の中浜鉄はギロチン社というアナキスト団体を作って、さまざまな陰謀をめぐらした果てに、死刑になるのであるが、その中浜を中心にしたアナキストの群像がこの映画には登場して、女相撲たちとかりそめの触れ合いをするのである。映画はそのギロチン社の名と、かれらを弾圧する権力との戦いを描く。菊は天皇制権力を象徴するものだ。

中浜たちは、関東相震災のどさくさまぎれに大杉栄が虐殺されたことに怒り、殺害犯の甘粕を殺そうと思うが、本人は監禁されているので、弟を成敗しようとして失敗する。その彼らの最終的な目的は、大正天皇の摂政である皇太子(後の昭和天皇)の殺害である。その前に、時の有力者福田某を暗殺しようと企む。

その中浜たちが女相撲と出会ったのは、千葉県の漁村船橋に滞在していた時だ。そこで中浜(東出昌大)は朝鮮人女性の十勝川(韓英恵)と仲良くなり、中浜の友人古田(寛一郎)は上述の若い女花菊(木竜麻生)と仲良くなる。かれらはしばし行動を共にし、官憲の弾圧に抵抗するのである。官憲のほかに、在郷軍人会の連中も出て来て、こちらのほうがもっとあくどいことをする。十勝川は、朝鮮人という理由でかれらに襲撃され、瀕死の重傷を負わされるのである。

この十勝川が、大震災直後に日本人から加えられた攻撃の恐怖を語る。彼女は浅草あたりで自警団に拘束され、江戸川で朝鮮人がリンチされるところを目撃していた。また、彼らが立ち寄った船橋でも、朝鮮人の大虐殺が起きていた。船橋には軍の施設があって、そこから発せられたデマに土民たちが踊らされ、多くの朝鮮人を襲って殺したというのだ。小生は現在その船橋に住んでいるのであるが、たしかにそういう言い伝えはあるようである。

中浜と古田は、たまたま身近に警察官僚正力松太郎がいることを知り、かれを暗殺しようとするが失敗する。そこで日本から脱出して、朝鮮にわたる。そこで爆発物を入手して、テロに使おうというのだ。いくつか手には入れたが、あまり性能のよいものではなかった。ともかく日本に返ってきたかれらには、いよいよ最後の時がせまる。中浜は、実業家から金をゆすったところを官憲に拘束され、やがて裁判にかけられて死刑判決を下されるのだ。

一方古田のほうは、花菊が亭主に拉致されたところを助けに入り、助けたのはいいが亭主に大けがをさせたことで官憲につかまることになる。その前に花菊は女相撲の一座に戻るのだ。それと前後して、男と共に一座を抜け出した女相撲が、心変わりから男を捨てようとして暴行され、それがもとで死んでしまうシーンがある。女相撲たちのはかない運命を象徴するような出来事だ。

こういう具合で、女相撲とアナキストたちの出会いと触れ合いを情感豊かに描いている。その情感は、社会のはみだし者同士の連帯のようなものから醸し出されてくる、というふうに伝わって来る。この映画は三時間を超える大作なのだが、時間の長さを感じさせない。一気に見終わってしまうという感じなのだ。それは、今村昌平を思わせるような猥雑さとテンポの速い画面作りに由来するのだろう。瀬々としては快心の作ではないか。

なお、この映画のなかで紹介されている朝鮮人の虐殺については、都合の悪い事実を忘れたがる昨今の日本の風潮を考えれば、思い切った演出だったといえよう。






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