無限の世界観<華厳>

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角川書店版「仏教の思想」シリーズ第六巻「無限の世界観<華厳>」は、華厳経及び華厳宗についての特集。仏教学者の鎌田茂雄と哲学者の上山春平が担当している。かれらによれば、華厳宗は天台宗とならんで、中国的な仏教あるいは仏教の中国化を代表する宗派ということになる。仏教の中国化を簡単にいうと、凡夫でも容易に仏になれると主張するところにある。大乗仏教にはそもそもそういう特徴が内在していて、それが菩薩信仰につながったわけだが、中国仏教はそうした特徴を突き詰めたということになる、というのがかれらの指摘である。要するに仏教の現世化あるいは世俗化を推し進めたのが中国仏教だというわけである。

そうした世俗化を支えた思想は、人間にはもともと仏性が宿っているとする考えである。人間は仏と全く異なったものではなく、その本質は仏と同じである。たまたま事情があってその仏性が曇らされている。それは煩悩のせいである。だから煩悩を取り除いて清浄な心になれば、人間の仏性が発現して、悟りをひらく、つまり成仏することができる。そのように説くのである。

このように人間性を非常に肯定的、あるいは楽天的に説くのが中国仏教としての法華経と華厳経に共通した特徴である。それに対して、般若経に代表されるようなインド的な大乗仏教では、空の思想を強調する。空の思想というのは、非常に否定的でかつ悲観的な世界観に裏打ちされているのである。

天台宗も華厳宗も、凡夫と仏とを連続したものと考えるのであるが、凡夫が成仏するプロセスについては、多少の相違がある。天台では、成仏するについて厳しい修業を要求する。つまりだめな人間が修業することによって仏の境地に達するとする。それに対して華厳のほうは、人間は本来は仏なのだといい、だから仏の立場から三昧すればよいとする。だから修業の要素を軽視して、理論をもてあそぶ傾向が強いという。

ともあれ、凡夫の仏性が実現するプロセスを特徴づければ、天台については性具説、華厳については性起説ということになる。性は仏性という意味である。性具説とは、凡夫にはもともと仏性が備わっているのだから、それを修業を通じて実現するというような主張であり、性起説とは、もともと凡夫に備わっている仏性がそのまま発現する、つまり本来我々人間はそのままに成仏できるとする主張である。

日本へはまず華厳宗が伝わり、そのあとで天台宗が伝わったが、中国では、天台宗のほうが早く始まった。天台宗の開祖慧文は南北朝時代末期北斉の人であり、隋の時代に智顗が皇帝煬帝の帰依を得て広めた。法華経を根本経典とするもので、中国的な信仰の色合いが強い。それに対して華厳宗は、唐の時代に始まり、第三祖法蔵のときに則天武后の帰依を得て大いに栄えた。こちらは華厳経を根本経典とするが、信仰というよりは、学問としての色彩が強い。実際法蔵の展開した華厳宗は、唯識の思想を取り入れて、壮大な哲学体系を形成した。

中国仏教は、その後あまり広く普及することはなく、したがって天台宗も華厳宗も先細りしていったが、日本では事情が異なり、仏教は大いに栄えた。天台宗のほうは、鎌倉仏教の多くがそこから派生したといえるように、日本仏教の王道というべきものになった。一方華厳宗のほうは、宗派本体としては弱体化したが、禅宗に大きな影響を与えた。したがって今日においても、禅宗を通じて華厳思想は生き残っているといえる。

特に道元の禅は、鎌田によれば、悟りを求めてはいけないと言い、迷いのあることはそれでいいのだ、それを除こうとしたり、拒否したりしてはいけない、というが、そういう考え方には華厳経の性起の思想が色濃く反映しているという。それは、人間は本来的に成仏しているという考えから来ているというわけである。






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