莫言のグロテスク・リアリズム:「赤い高粱」から

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莫言の作風は、マジック・リアリズムとかグロテスク・リアリズムとか評される。マジックというのは、時空を超えた自在な語り口をさしていうのであろう。また、グロテスクというのは、暴力をさりげなく描写することを意味するようだ。莫言は暴力を、小説を彩るもっとも大きな要素として使っている。その描写の仕方は、あまりにもストレートなので、妙にサバサバとしている。あまり陰惨な感じはしない。そこがかえって読者をグロテスクなものを見たという感じにさせるのであろう。大江健三郎や村上春樹の暴力表現とは、かなり異なっている。大江や村上の暴力表現は迫真性を伴なっているので、読者は自分自身が追体験しているように感じるが、莫言の暴力描写にはそうした迫真性はない。だから読者は、遠くから眺めているような気持ちで読めるのである。グロテスクなものを見るような気持ちで。

「赤い高粱」のなかで最も印象的な暴力描写は、人間の皮をはぐ場面だ。日本軍が、中国人に命じて中国人の皮を剥がせる。抵抗する中国人への見せしめのためだ。皮をはぐ中国人は、日頃犬の皮を剥ぐのが生業なので、人間の皮も器用に剥いで見せる。その剥ぎ方がすさまじい。まず両耳をそぎおとすのだが、これはその切り口を手掛かりにして、頭の皮をはぐための準備だろう。ついで陰部をそぎおとす。これはどういう意味だかよくわからない。ともあれ、皮を剥ぐ様子は次のように描写される。

「孫五(皮を剥ぐ男)は包丁を手にして、羅漢大爺(皮を剥がれる男)の頭のめくれあがった傷口から皮を剥ぎ始めた。刃がひそかな音をたてて動く。孫五は念入りに剥いでいった。羅漢大爺の頭皮がめくれて、青紫の眼球が現れた。突起した肉が現れた・・・大爺が一つの肉塊にされてしまってからも、はらわたはぴくぴくとうごめいており、緑色の蠅が幾つも群をなしてあたりを舞っていた。人の群のなかの女たちはみな地面に跪き、泣き声が田野を震わせた」

人間の皮を剥ぐ場面は、村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」にも出て来る。こちらは、日本人がロシア軍によって皮を剥がれる。実際に剥ぐのは、モンゴル人である。ロシア軍の将校がモンゴル人に命じて、日本人のスパイの皮を剥がせるのだ。その様子は次のように描写される。

「男はまず山本の右の肩にナイフですっと筋を入れました。そして上のほうから右腕の皮を剥いでいきました・・・彼はまるで慈しむかのように、ゆっくりと丁寧に腕の皮を剥いでいきました。たしかにロシア人将校の言ったように、それは芸術品といってもいいような腕前でした。もし悲鳴が聞こえなかったなら、そこには痛みなんかないんじゃないかとさえ思えたことでしょう・・・皮剥ぎの将校はそれから左腕に移りました。同じことが繰り返されました。彼は両方の脚の皮を剥ぎ、性器と睾丸を切り取り、耳をそぎ落としました。それから頭の皮を剥ぎ、顔の皮を剥ぎ、やがて全部剥いでしまいました。山本は失神し、それからまた意識を取り直し、また失神しました。失神すると声が止み、意識が戻ると悲鳴が続きました。しかしその声もだんだん弱くなり、ついには消えてしまいました・・・あとには、皮をすっかり剥ぎ取られ、赤い血だらけの肉のかたまりになってしまった山本の死体が、ごろんと転がっているだけでした」

皮の剥ぎ方は莫言のとよく似ている。性器を切り取り両耳を剥ぐところなど。違うのは、皮を剥ぐ動機だ。莫言の場合には、中国人への見せしめだが、村上の場合には皮を剥ぐこと自体のもたらす快楽のようなものが動機になっている。そういう意味では村上のほうが陰惨なイメージが強い。莫元のは、グロテスクではあっても、情動的な興奮を呼び起こす陰惨さは弱いといえる。村上は、莫言よりも後でこれを書いており、おそらく莫言を意識していたと思われる。同じようなことを書くについては、よりイモーショナルなものにしようとする動機が働くのだろうか。

もう一つの暴力シーンとして、ゲリラ仲間の一人が処刑される場面がある。婦女子を強姦した罰だ。銃殺されるのだが、その死体の様子が次のように描写される。「顔で無傷なのは口だけ。頭蓋は吹っ飛び、脳漿が二つの耳にべったりとついている。片目が眼窩から飛び出して、大粒の葡萄のように耳のそばにぶらさがっていた」。莫言は、暴力を視覚的に表現する才能に恵まれているようだ。

暴力は日本兵に向っても振るわれる。これは圧倒的な侵略者への報復として語られるので、痛快な要素がないわけではない。ともあれその描写は次のようなものである。「勢いにのって刀をふるうと、鉄かぶとをかぶった鬼子の首がま横にすっ飛んだ。首が空中に長い叫びをひいてどさりと地に落ちてからも、口はまだ甲高い悲鳴をあげようとした。よく切れる刀だな、と父は思った。鬼子の顔には首が胴を離れる前の驚きの表情がこびりついており、まだ頬の筋肉が震え、鼻孔はくしゃみでも出そうにひくひくと動いていた」。実にリアルな描写である。近年の中国映画「鬼が来た!」に、日本人が中国人の首をはねるシーンが出てくるが、その際の描写の仕方が、莫言のこの文章を想起させる。莫言の描写は、絵になりやすいのである。

死体の首という点では、犬の首が人間に喰われるシーンが出て来る。腹をすかせた主人公の余占鰲が、一軒の食堂に入って犬の首を喰わされる。「片手に酒の入ったどんぶり、もう一方の手に犬の頭を持って一口酒を飲み、よく煮えてはいるがまだ凶悪な犬の目をちらと見た。自棄気味に口をかっと開き、犬の鼻めがけてかぶりつくと、意外にうまい。確かに腹はすいていた。かれはろくに味わいもせずに犬の目玉を呑み、脳をすすり、舌をくちゃくちゃと噛み、頬をかじって、どんぶり一杯の酒をたいらげた」

以上は、この小説のなかでの暴力シーンの主なものだ。グロテスクの要素にはセックスとかスカトロ趣味も指摘できるが、この小説にはそうした要素は強くは顕現してこない。せいぜい、酒のなかに小便を混ぜたら、味がよくなったと書くくらいである。







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