インドへの道:デヴィッド・リーン

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デヴィッド・リーンの1984年の映画「インドへの道(A Passage to India)」は、イギリスによるインド支配の一側面を描いた作品である。イギリス人は支配者としてインド人に君臨し、クラブと称する自分たちだけの閉鎖的な社交界を作ってインド人を蔑視している。そういう中にも良心的なイギリス人はいて、インド人に対して公平に接しようと考えている。そうしたさまざまな人々の生き方を通じて、植民地支配の問題を考えてもらおうという意図を感じさせる作品である。

この映画を見ると、デヴィッド・リーンは公平とか正義といった理念にかなり前向きだというふうに伝わって来る。この映画は、イギリス人女性の誤解あるいは妄想から、暴行の嫌疑を受けたインド人医師の苦境をテーマにしているのだが、その意志が体現しているインド的なものへのイギリス人の侮蔑的な態度が強調的に描かれ、イギリスによる植民地支配の傲慢な側面があぶり出される一方、そのインド人を裁くのは法に則った手続きであり、その法がインド人を窮地から救う。そういう面では、法を重視するイギリス的なシステムを高く評価してもいるので、一方的にイギリスを批判しているわけではない。そこはイギリス人としてのリーンのイギリスに対する心遣いのあらわれなのだろう。

主人公は、インドにいるフィアンセを訪ねてきた女性アデラ。彼女にフィアンセの母親モア夫人が同行している。彼女らは、インド人と人間的な触れ合いをしたいと思っている。だからインド人への偏見は抱いていない。とくにフィアンセの母親モア夫人はインド人に対して公平で、インド人医師アジズが検挙されたときにも、かれの無実を信じている。一方アデラのほうは、インドのセクシーな石像を観たりするうち、インドに対して複雑な感情を抱くようになり、そのことが彼女を妄想にかりたてて、インド人医師アジズを告発する事態に至らせるのである。

もう一人の重要人物として、国立大学教授フィールディングが出て来る。かれは仕事を通じてアジズと深いつながりがあり、日頃からアジズを信頼している。だからアジズが起訴されたときには、全面的にアジズの味方をする。そんなフィールディングをイギリス人社会は村八分にするのだが、フィールディングはそんなことにへこたれない。

アジズの裁判はインド人への弾圧だと受け取ったインド人の群衆が裁判所を取囲んだりして不穏な空気がただよう。しかし、意外なことに、アデラが自分の妄想に気づき、告発を取り下げたことで、アジズは無罪放免になる。しかし、誠意を尽くした相手から裏切られたと感じたかれは、地方に去ってしまう。その数年後、一旦帰国して、結婚した妻と共にインドに戻って来たフィールディングは、努力の末アジズと対面する。アジズは、フィールディングがアデラと結婚したのだと思って心穏やかでなかったのだが、じっさい会ってみると、かれの妻はモア夫人の娘ステラなのであった。そこでいままでのいきさつにふっきれた気持ちになったアジズは、アデラに向けて和解の手紙を書く。アデラはその手紙を複雑な気持ちで読むのである。

この映画のポイントは、アデラがアジズを告発することだ。彼女がなぜそんなことをしたのか、画面からは合理的な説明は伝わってこない。彼女がインドまでやってきたのは、フィアンセと会うこと、インド人を理解すること、この二つの目的のためだった。ところがフィアンセは思いのほかの俗物で、彼女はかれとの結婚をあきらめる。一方、インド人の文化については、露骨に性的なイメージを目のあたりにして、なんだかわけがわからなくなってしまった。そうした幻滅の重なりが彼女を混乱させて、アジズの告発に踏み切らせたというような筋書きになっているが、どうも自然でないところがある。ひとつ明らかなのは、イギリス人のインド支配には、正統性はないとする考えが、画面から伝わって来るということである。

ヨーロッパ人種とインド人のかかわりを描いた映画としては、ルノワールの「河」がある。「河」がインド的なものを抒情的に映し出していたのに対して、リーンのこの映画には、かなり政治的なメッセージを読み取ることができる。






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