白井聡「国体論」

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白井聡は「永続敗戦論」を書いて、戦後日本の対米従属と東アジア諸国への傲慢さの根拠を解明し、それを日本が敗戦の事実を十分に清算出来ていないことに求めた。その結果いまだに永続敗戦レジームというべきものが日本を支配している。そのレジームの中で、対米従属と、したがって国家としての無責任体制が蔓延している。それは異常なことだ、というのが白井の見立てであった。

この「国体論」は、対米従属の永続敗戦レジームの内実を更に踏み込んで解明したものである。白井はそのレジームを支えているのは、新たな国体だという。国体というと、戦前の天皇を頂点とした絶対主義的な統治体制をイメージするが、じつはその戦前の国体レジームは清算されずに、形をかえて再生産された。それは、天皇のかわりにアメリカをいただき、アメリカを中心とした統治体制なのだと白井はいう。今の日本は、アメリカを実質的な天皇としていただき、そのアメリカに国民が一体化を感じるような体制である。その意味では日本人は、心の中までアメリカの臣民として自分を認識している。

こういう見立ては、いささかショッキングである。小生も、日本の対米従属振りと、それにともなう奴隷根性のようなものを、日頃苦々しく思ってきたところだが、そういう日本の国家としての振舞いが、新たな国体意識を根拠としてきたとまでは思わなかった。日本という国の形である国体が、外国であるアメリカによって規定されているとは、なんとスキャンダラスなことか。そのスキャンダラスなことが、いまの日本ではスキャンダラスとは受け取られず、国民はみな嬉々としてアメリカをたたえている。それは政治家から一般庶民まで同じことである。政治家たちは、政治向きのことはアメリカの言いなりになっておればよいと公言してはばからないし、一般民衆はアメリカのポップ文化を内面化している。かっこいいのはみなアメリカ発のものなのだ。

政治家たちの対米従属のみっともなさは、たとえば安倍晋三が、この国の首相になったときに、アメリカの若者たちに日本を守ってもらうのだと真顔で言ったことに現われていたし、また小泉純一郎は、日本の外交政策は全てアメリカの言いなりでよいと言っていたものだ。そこまで極端でなくとも、日本の政治家の大部分は対米従属を日本の永遠のレジームだと思い込んでいるフシがある。

この本は、なぜ日本が対米従属を国体の本質的な要素として取り込んだか、その歴史的な経緯を分析したものである。国体というのは、明治以降に形成された概念であるから、まずはそれの形成の現場に踏み入り、戦前の国体との比較において戦後形成された国体を分析している。

おおざっぱに言うと、戦前の国体は天皇を頂点に戴いていたが、戦後はアメリカが天皇にとってかわって頂点を占めたということになる。いまの日本はだから、アメリカを擬似天皇としていただく体制だということになる。では本物の天皇はどうなるのか。本物の天皇は、憲法上の役割を形式的に付与されているが、実質的には国民の統治者ではない。政治的には全く無力といってよく、精神的な権威も高くない。だから右翼からさえも、天皇は生きているだけでよいと馬鹿にされる始末である。いまの日本の右翼は基本的には親米であり、したがって対米従属に異議を唱えないばかりか、アメリカの利益こそが日本の利益だと臆面もなくがなりたてる。小生はあまり見たことがないが、右翼の街宣車には日の丸と並んで星条旗を風になびかせて走るものもあるという。

そんな天皇に対して、白井は同情的なようである。だいたいこの本は、平成天皇の「お言葉」への言及から始まっているのである。その「お言葉」に白井は、対米従属といういまの日本の体制に天皇が危機を感じたと見る。天皇は国体を想起させるような言い方はしていないが、なにもかもアメリカ中心に動いている日本人の振舞いに日本人の象徴として強い危機を感じたとは言えそうである。

天皇の危機感を別にして、対米従属が向かう先には大きな危機があると白井は言う。アメリカは常に戦争をしている好戦的な国であり、それとあまりにも一体化すると、アメリカの戦争に日本も付き合うハメになる恐れが強い。これまでは、なんだかんだといって戦争に巻き込まれることを日本は避けてきたが、今後は、率先して戦争に付き合うことも考えられる。これまでも日本は、朝鮮戦争やベトナム戦争の恩恵を受けてきた。そのことで日本の支配層は戦争への誘惑を感じているに違いない。その誘惑を阻止する要因が取り除かれ、日本が軍事的にもアメリカと一体化するようになったいま、日本が積極的にアメリカの戦争に付き合う可能性はかなり高まってきたと白井は見る。その際に、たとえば北朝鮮との戦争に踏み切ったときには、日本が核攻撃を受ける危険も高まるわけだが、どうやら日本の支配層は、多少の日本人が犠牲になっても、戦争のうまみを追求することを選ぶだろうと白井は推測している。そんなことはあってほしくないが、無責任丸出しの日本の支配層をよくよく見れば、あるいはそういうことになろうかとも思われる。背筋が寒くなるのを覚えるような話である。

なお白井は、戦後体制の批判者として三島由紀夫を高く評価しているようである。三島は戦後の日本が経済的な繁栄だけを追及し、日本的なるものを軽視してきたことに憤りを感じ、こんなことのために英霊たちは死んだのではない、と怒った。三島のその怒りは、戦後の国体の体現者としての天皇に向けられた。三島の天皇への怒りは、天皇が人間になったということに向けられ、その怒りは天皇への敵意となった。白井は、三島に大逆の意思があったと推測している。その大逆が捻じ曲がって自殺へと結びついたと見ているようだ。三島にとって気の毒だったことは、三島が戦後の日本の国体の体現者を天皇のうちに見て、アメリカには気がつかなかったことだろう。戦後の日本の国体の実質はアメリカだったわけだから、戦後の国体を攻撃しようと思えば、アメリカを攻撃すべきだったのだ。ところが三島の攻撃の矛先は、天皇のほうに向いてしまった。それは大きな誤解にもとづく不幸なあがきだった、というふうに小生には映る。





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