森嶋通夫のマルクス論

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近代経済学とマルクス経済学とは水と油の関係だというのが常識的な見方だが、森嶋通夫はマルクスの経済学を、近代経済学の流れの中に位置づける。ということは、近代経済学者はマルクスを毛嫌いするのではなく、きちんと学ぶべきだと言っているわけだ。マルクスの何を学ぶのか。森嶋は、経済学を含む社会科学を、ウェーバーのいうような理念型の分析と価値判断をともなった分析とにわけ、科学的な分析は理念型でなければならないというのだが、マルクスの経済学には、価値判断を伴った分析のほかに、理念型の分析も含まれており、その部分は十分参考するに耐えると評価するのである。

先述のとおり、森嶋はリカードを近代経済学の祖としてうえで、ワルラスとマルクスをその直接の後継者とみなし、それぞれから主流派の近代経済学の流れと社会主義経済学の流れが生じたとする。森嶋自身は、基本的には近代経済学の立場に立っており、そのうえで近代経済学の足りない部分を補うという姿勢なのだが、その際にマルクスの理論を、反面教師的に利用するというような姿勢をとっているようである。近代経済学は、基本的には自由な経済活動を前提としているが、それでは様々な矛盾が生じてくる。そうした矛盾は、資本主義に内在する矛盾としてマルクスが指摘するところである。その指摘を参考にして、矛盾を一つひとつ解決していけば、望ましい資本主義のあり方が見えてくる。そう森嶋は考えるのである。

ワルラスとマルクスがリカードから学んだのは、競争を通じての均衡という思想だった。完全競争が行われている経済社会においては、需要と供給とが一致し、均衡が達成されるというのがリカードの基本的考えだったわけだが、その考え方は、経済学史上「セーの法則」と呼ばれるものを前提としていた。「セーの法則」とは、供給は需要を生み出す、というものである。つまり作ったものはもれなく売れる、ということを前提にしているわけで、それがどんな場合にも当てはまるのであれば、完全競争経済は常に完全雇用を伴った均衡に達することができる。ところが現実にはそうはいかない。もし需給が均衡に達するにしても、その均衡は完全雇用を伴うとは限らないし、そもそも「セーの法則」事態が、現実から乖離している。これに気づいたのはケインズで、ケインズ以降は需要と供給とが一致しないことを前提に、経済対策が考えられるようになった。ケインズの経済理論は、有効需要の足りない部分を国が補って、完全雇用に近い状態を人為的に実現しようというもので、国家による経済への計画的な介入を織り込んでいる。そこがケインズ以前の伝統的な近代経済学とは決定的に異なるところだ。現在の経済学は、ケインズの立場を踏まえた上で、自由と計画とを組み合わせた、いわば混合経済を目指すべきだというのが、森嶋の主張である。

こうした森嶋の主張にとって、マルクスはどのような意味を持つのか。森嶋のマルクス評価は二つの柱からなっている。一つは経済理論家としてのマルクスであり、この点ではマルクスは近代経済学と同じ土俵で論じられる。近代経済学者としてのマルクスは、ワルラス同様「セーの法則」を前提としており、その点では近代経済学者が陥ったと同じ弱点を抱えていると見る。もう一つは社会思想家としてのマルクスである。マルクスの社会思想の中で森嶋が注目するのは史的唯物論である。史的唯物論を森嶋は、土台としての経済が上部構造としてのさまざまな社会的・思想的領域を一方的に規定する見方として捉えている。それに対して森嶋は、現実の人間社会はそんなに単純なものではなく、上部構造が下部構造に働きかけて社会を変革させることもあると指摘する。じっさい社会の巨大な変革は、下部構造としての経済的な土台を支える生産力の発展によって自動的にもたらされたものではなく、偉大な個人のイノベーションによるところが大きい。つまり森嶋は、個人の役割を重視する点で、個人を唯物論的に見るマルクスとは一線を画している。

まず、経済理論家としてのマルクス。この点についていえば、森嶋はマルクスをワルラスと同じように見ている。つまり「セーの法則」を前提にした経済理論を展開したという理解である。だが果たしてそうか。「セーの法則」は需給の一致によって一般均衡が達成されるというものだが、マルクスはそうは主張していない。マルクスの経済理論の核心は、労働価値説と競争を通じた利潤の平均化というところにある。いま労働価値説を脇におけば、利潤の平均化が問題になるが、マルクスは利潤の平均化が競争によってもたらされるとは言っているが、その競争が一般均衡的な状態を実現するとは言っていない。だいいちマルクスには、森嶋がいうような「セーの法則」の要素は見られないといってよい。マルクスは「セーの法則」の帰結である一般均衡が経済の常態ではなく、むしろ不均衡が常態だと言っている。その不均衡が恐慌という形をとる。マルクスの経済理論は、基本的には、均衡についての理論ではなく、不均衡と恐慌についての理論なのである。

もっともマルクスが、ケインズのように需要ではなく供給面により強い関心を向けているのは事実である。ケインズが有効需要の不足と言っていることを、過剰生産と言うところなどはその顕著な例である。それはマルクスの経済理論の基本が生産過程の分析にあるところから由来している。マルクスの関心の焦点は、剰余価値の源泉である剰余労働が、いかに生産過程の中から生み出されるかにあったわけで、いきおい生産の側面を重視するようになった。生産は供給にほぼ等しいから、供給重視の考えといってもよい。しかし供給重視の考えが即、供給が需要を生み出すという主張にはつながらない。

マルクスの史的唯物論については、森嶋はそれを、あまりにも上部構造の役割を無視していると批判している。社会を変革するのは、生産力の発展としての下部構造の変化だけではなく、個人によるイノベーションも大きな役割を果たす。歴史を見れば、そうした個人の役割こそが歴史を動かしてきたということがわかる。そう言って森嶋は、個人によるイノベーションに大きな意義を付与するのである。たしかにマルクスには、個人の役割を軽視するところがある。マルクスは資本主義には始まりと終わりがあるといい、その終わりは、生産力の発展にともなって必然的に到来するといっている。そこには、個人の役割は決定的な意味を持たない。資本主義の矛盾こそが、資本主義を終わりに導くのであり、それは怒涛のような勢いのもので、何人もとどめることはできないというのがマルクスの考えだった。

ところで、マルクスほど資本主義の矛盾を体系的に明らかにしたものはない。そこは森嶋も認めているようである。資本主義は一時期本格的に終わりを告げそうなこともあった。たとえば1929年の世界大恐慌である。それはマルクスのいうような資本主義の矛盾が爆発した結果だったわけだが、その矛盾をなんとか解決することで資本主義は生きながらえてきた。ケインズがその処方箋を用意したわけだが、ケインズの処方箋は、基本的には完全雇用の実現を目指したものだった。完全雇用が達成されず、失業者は巷にあふれるようでは、人々の怒りが爆発し、資本主義は破壊される運命にある。そうならないためにどうすればよいか。それを考えるのが資本主義社会に生きる経済学者の努めであり、マルクスのように資本主義社会を転覆することを考えてはいけない、と森嶋はいさめるのである。

森嶋は、社会科学に価値の視点を持ち込んではいけないというのだが、こと資本主義経済を論じるにあたっては、資本主義の維持という価値を、あらゆることの基準にしているように見える。





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