松崎慊堂像:渡辺崋山の絵画世界

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松崎慊堂といえば、小生などは「慊堂日歴」がまず思い浮かぶ。この日記は荷風散人も愛読していたもので、徳川時代後期における武士の生活ぶりがよくうかがわれるものである。渡辺崋山との関係で言えば、蛮社の獄で崋山が窮地に立たされたときに、崋山の行く末を案じる気持ちを記している。

崋山は、文政九年(1826)三十四歳のときに慊堂に師事した。鷹見星阜、佐藤一斎に続いて三人目の師であった。星阜とは若くして死別し、一斎とは親身な付き合いができなかったのに対して、慊堂は心の通い合う良い師であった。崋山が蛮社の獄で窮地に立った時に、その救済のために動いたのは慊堂だけだったと言ってもよい。慊堂は、時の実力者で蛮社の獄を仕掛けた鳥居耀蔵の上役水野忠邦に働きかけた。

慊堂は、水野に手紙を書いて、崋山の無罪を理路整然と説いた。理屈に弱い水野はその論理に圧倒されたのであろう。さすがに無罪にすることはなかったが、死罪は避けた。おかげで崋山は、不名誉な死を免れたのである。最も崋山は、自分の不手際を恥じて、まもなく田原で自決するのであるが、それは慊堂のかかわるところではない。

慊堂はまた、日記のなかで崋山を気遣っている。その文章からはやさしい人柄が伝わって来る。崋山がその慊堂の肖像画を描いたのは、師事して間もないころのこと。款に丙戌とあるから、文政九年の作品である。慊堂日暦には、その頃崋山が慊堂のもとへ来て写生する様子が記されている。

佐藤一斎像と比べると、人柄の相違が伝わって来る。一斎の像が酷薄な印象を与えるのに対して、慊堂のこの像は、暖かい人柄を感じさせる。






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