多和田葉子「言葉と歩く日本語」

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多和田葉子は、22歳の時にドイツに移住して以来、ドイツ語を日常的に話す一方、日本人とも話し続けてきたわけで、要するにバイリンガルな生活を送ってきたわけだ。おそらくそのためだろう、言葉というものに常に自覚的だったようだ。そんな彼女が、「日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分を観察しながら一種の観察日記をつけてみることにした」のが、この「言葉と歩く日本語」という本である。タイトルからは、主に日本語を論じているように伝わって来るが、それはドイツ語と比較したうえでの日本語なので、当然ドイツ語についても語っているわけである。

日本語とドイツ語を比較した場合に、もっとも強く迫ってくるのは、主語の使い方だという。ドイツ語に限らずヨーロッパ諸言語は、主語なしでは語ることができない。たとえば、日本語では「冷蔵庫の中にビールが一本ある」というところを、ドイツ語では「わたしはわたしの冷蔵庫の中にビールを一本もっている」という具合に、冷蔵庫の中のビールが話題になっているにかかわらず、わたしが主語の文章になってしまう。そういうふうに主語を入れないと、文章として成立しないのだ。だが彼女としては、そういうふうに言われると、「冷蔵庫が誰のものか聞いていない」と言いたくなるそうだ。

主語と抱き合わせで、ドイツ語では格変化がうるさい。これは彼女が大学で専攻したロシア語も同様で、そのほかのヨーロッパ諸語もだいたい似たようなものである。英語については、近年格変化を意識させない言い方が増えてきたが、それは英語が国際語で、さまざまな言語の影響を受けやすいからかもしれない。

ともあれ、ヨーロッパ諸語は、主語の頻用とか格変化とか冠詞とか性別とか、かなりうるさい規則がある。ヨーロッパ人はそれが規範的なあり方で、日本語のように主語が曖昧で、格変化せず、冠詞や性別のない言語は原始的だと思っているようだが、彼女から言わせると、ヨーロッパ言語の方が変則で、世界中の言語のうちの六分の一を占めるに過ぎない。かえって日本語のようなあり方が人類の言語の多数派ということらしい。彼女の面白いところは、多数派が規範的というべきであって、少数派であるヨーロッパ言語は異端というべきだと考えていることだ。そういう立場から、ヨーロッパ言語の卓越性を主張し、それと違うものをみんな同じ穴のムジナのように言う人を、「鍋から見れば、ミシンとコウモリ傘は似ている」と主張するようなものではないかと、憤慨して見せる。

ところでその主語であるが、日本語には、ヨーロッパ言語と同じような意味での主語は存在しないという。彼女は、金谷武洋の説を引用しながら、日本語には主語はなく、「わたしは」のわたしは、主語ではなくトピックをあらわすという主張に賛同している。たとえば「明日は詩を書くつもりだ」という場合に、「明日」は主語ではなく、トピックだという。この話を聞いて小生は、かつてインドネシアに旅行した際に、飲み物は何にしますかと聞かれたことを思い出す。その時小生は、普通の英語表現にしたがって、「アイド・ライク・ア・カップ・オブ・コーヒー」と返事したのだが、小生の脇に腰かけていた婦人は、「アイ・アム・オレンジジュース」と答えたのであった。彼女は日本語の言い方をそのままストレートに英語に変換したのであった。主語のない言葉を、無理に主語をつけて表現すると、そういうことになりかねないわけである。

この本にはそのほかさまざまなエピソードが収められている。日々思ったり感じたりしたことをそのままに記すのが日記というものの特質だから、エピソードの間にかならずしも脈絡はない。ここではそんな脈絡のないエピソードのうちから、小生が面白いと感じたものを、いくつか紹介したい。

韓国人の友人に、日本で出版された自分の本を示したところ、それが縦書きだったことにその友人は驚いた。韓国では横書きなのだそうだ。中国でも同様で、唐詩選のような書物でも、いまは横書きだそうだ。ハングルにせよ、漢字にせよ、個々の文字は左右に分解できる。ということは、縦書きを想定して作られているということだ。左右からなる文字を横につなげると、個々の文字の間で切れ目がなくなり、非常に読みづらい。日本語の場合には、漢字の合間にカナが介在するので、そうひどくは感じないが、漢字ばかりだとそうはいかない。ハングルを横書きにすると、漢字を横書きにする以上に読みづらいのではないか。

広辞苑で日本という言葉を引くと、「わがくにの国号」と書いてあるそうだ。これを読んで彼女は、広辞苑の作者は一人称で辞書を書いているのかと思ったそうだ。こういう書き方が通れば、たとえばプードルは「わたしの飼っている犬」ということになる。

辞書が話題になったついでに、「本番」の意味についてのエピソードが語られる。誰もが知っている通り、「本番」という日本語には「性交」という意味もある。そこで日本語のできない人が、ニッポン放送のスタジオに「本番中。静かに」と書かれた札が下がっているのを見て、慌ててオンライン辞書を検索し、「性交中。静かに」という意味かと誤解する、というようなことが起きるのではないかと心配している。

これに限らず、日本社会にはわけのわからぬことが多い。そのなかには身の毛のよだつようなこわい話もある。そんなことから、「日本社会をそのまま描けばホラーになるので、ホラーは一番リアリズムに近いジャンルである」と彼女は断言するのである。






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