大木毅「独ソ戦」

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独ソ戦は、人類の歴史上もっとも大規模で凄惨な戦争であった。この戦争によるソ連側の死者は従来2000万人といわれていたが、近年の研究で2700万人に上方修正された。ドイツ側の死者数も、さまざまな見積もりがあるが、全体で600万人ないし900万人と推測され、その大部分が独ソ戦にともなうものである。そんなにも巨大な犠牲を出したわけは、独ソ間での全面戦争であったということのほかに、この戦争が、普通の戦争とは違って、民族の奴隷化とか絶滅を目的としたものだったことだ。ヒトラーは、独自の民族観から、ロシア人を劣った人種と見なし、その奴隷化と殺戮を公然と行った。そうした破廉恥な思想が、この戦争を凄惨なものにした。著者の大木毅はこの戦争を、ヒトラーが仕掛けた絶滅戦争と定義づけている。

独ソ戦については、我々日本人はあまり知らないのではないか。小生に関しても、レニングラードの長期にわたる包囲とか、スターリングラードでのソ連の勝利が第二次大戦の帰趨を制したということ以外には、あまり知るところがない。日本に限らず、世界レベルでも独ソ戦の全容が明らかにされたというわけではないらしい。それには、ソ連側が資料の公開に消極的だったという事情があったようだ。それが、ソ連崩壊後徐々に公開されるようになり、それにもとづいて独ソ戦の全容が次第に明らかにされつつあるということらしい。

独ソ戦についてのイメージは、戦後ドイツ側の旧将校たちの振りまいたイメージに大きく作用されてきたと著者はいう。ドイツの軍隊は本来優秀で、まともに戦っていたら勝利できたはずなのに、ヒトラーが素人考えから口を出したおかげで、勝てる戦を負けたのだといったような言説がそうしたイメージを振りまいてきた。その代表的なものはパウル・カレルで、かれはドイツ敗戦の責任をヒトラー一人になすりつけ、ドイツ軍の名誉にこだわった。いまでは、かれの言説の大部分は、根拠のないプロパガンダだったと批判されているという。

独ソ戦は、1941年6月22日にドイツ軍がソ連に向って進撃したことに始まり、1945年5月2日にドイツの無条件降伏で終わった。その約4年間の戦争を著者は、大きく三つの段階に区分する。第一段階はドイツ軍の怒涛の進撃、第二段階はスターリングラード攻防戦の勝利に象徴されるソ連軍の反撃、そして第三段階は敗走するドイツ軍へのソ連軍の追撃である。その追撃はすさまじい執念をともなっていたが、それには戦後秩序形成へ向けてのソ連の利害の思惑がからんでいた、というような見方を著者はしている。

第一段階におけるドイツ軍の進撃は、バルバロッサ作戦と呼ばれている。これは、総勢330万人の兵力を三つの軍団に分け、それぞれレニングラード方面、モスクワ方面、ウクライナ・コーカサス方面へ向けて、一気にソ連を攻略しようというものだった。ドイツ軍は自信満々で、その自信どおり緒戦は大勝利を納めた。それについては、ドイツ軍が優秀だったというより、ソ連軍があまりにも弱体だったからだと著者は見ている。スターリンの粛清は軍部にも及び、有能な軍事指導者が根こそぎ始末されていた。したがって開戦当初のソ連軍は、きわめて低い能力しかもっていなかったというのである。これに加えてスターリンの情勢判断の誤りがあった。スターリンは、ヒトラーが不可侵条約を反故にしてソ連に攻めて来るとは予想できず、ソ連軍に準備の余裕を与えなかった。だからソ連軍は不意を突かれる形でドイツ軍の攻撃を迎えたというのである。

ソ連軍は、巨大な犠牲を出しながらもなんとか持ちこたえた。ドイツ軍は年内にソ連を屈服させるつもりでいたが、戦線は膠着した。その間にソ連軍は反撃の準備をした。その準備がスターリングラードでの勝利につながった、というふうに著者は見ている。

スターリングラード攻防戦は、1942年の夏に始まった。この攻防戦にはヒトラーの意向が強く働いていた。ドイツの軍部には、モスクワの攻略を主要目標にすべきだという意見が強かったが、ヒトラーはロシア南部の石油地帯の獲得を優先させた。スターリングラードは、その南部地域の最大の戦略目標だったわけだ。ヒトラーの意向には、この戦争を単に勝利を目標としたものではなく、ロシアを植民地化するという遠大な構想が働いていた。その構想にとって、石油地帯を確保することは、首都を攻略することより大きな意味を持ったのである。一方スターリンのほうは、モスクワ防衛に最大の関心を寄せていた。だから南部への肩入れには消極的だった。しかしヒトラーの意図が南部にあることが明らかになると、スターリングラードへの肩入れを強めた。こうしてスターリングラードは、独ソ戦最大の山場となるのである。ここでの戦いにソ連が勝ったことで、独ソ戦の帰趨がほぼ決まったといってよい。ドイツ軍は巨大な犠牲を出し、ついに立ち直ることができないまま、ソ連軍の圧倒的な攻勢に直面するのである。なお、スターリングラード攻防戦におけるドイツ軍の犠牲は、枢軸軍を合わせて死傷者80万以上といわれる。一方ソ連軍も100万以上の死者を出した。

スターリングラード攻防戦をはじめ、独ソ戦中盤以降のソ連軍には、戦略戦術面での進化があったと著者は見ている。ソ連軍には伝統的に「作戦」といわれる軍事的な技法があった。これは全体的な戦略と個別的な戦術とを有機的に結びつけて、軍が一体となって攻撃できるようにするシステムをいう。これに対してドイツ軍のほうは、ともすれば戦略と戦術とが有機的に結びつかず、個別の戦術に埋没する傾向が強かった。その差が、中盤以降におけるソ連軍の優位に結びついたと著者は見ているのである。

独ソ戦の第三段階は、敗走するドイツ軍をソ連軍が追撃する形になった。敗走するドイツ軍は、焦土作戦をとった。各地で町や村を焼き払い、住民を移送して強制労働に駆り立てたりした。そのことが、ソ連軍のドイツ軍への復讐心をいっそうかきたてた。ドイツ軍の蛮行とならんで、ソ連軍の蛮行もすさまじかったが、その蛮行はドイツ軍による蛮行への意趣返しの面をもっていたわけである。もっとも、戦後の世界では、ドイツ軍の蛮行にもっぱら脚光があてられ、ソ連軍の蛮行が非難されることは多くなかった。独ソ戦をソ連・ロシア側の視点から描いた映画には、ドイツ軍による蛮行は生々しく描かれているが、ソ連軍の蛮行を取り上げたものは、皆無に等しいのではないか。

独ソ戦を通じて、ドイツには有利な条件で講和する機会がなかったわけではない。だがヒトラーはそうした機会を生かそうとする意図は持たなかった。それはこの戦争が、通常の勝利を目的とした戦争ではなく、絶滅戦争だったからだ、と著者は言う。「ドイツが遂行しようとした対ソ戦争は、戦争目的を達成したのちに講話で終結するような19世紀的戦争ではなく、人種主義に基づく社会秩序の改変と収奪による植民地帝国の建設をめざす世界観戦争であり、かつ『敵』と定められた者の生命を組織的に奪っていく絶滅戦争でもあるという、複合的な戦争だった」と言うのである。

また、ドイツ国民も、そうした戦争を支持していた。それはドイツ国民が、この戦争によって得られたさまざまな特権の享受者だったためだ、というふうに著者は見ている。要するにこの戦争は、ヒトラー一人に責任をなすりつけて終わるような性質のものではないというわけである。





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