ドッペルゲンガー:黒沢清

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黒沢清の2003年の映画「ドッペルゲンガー」は、文字どおりドッペルゲンガーをテーマにした作品だ。ドッペルゲンガーというのは、分身とかもう一人の自分と訳されることが多いドイツ語で、幻覚の一種だと考えられる。文学の世界では格好の材料となり、これを扱った作品は数多くある。小生もいつくか読んだことがある。そのドッペルゲンガーを黒沢は、映画のテーマにしたわけだ。

ドッペルゲンガーはだいたい幻影のようなもので、実体はないというのが相場だ。ところがこの映画のなかのドッペルゲンガーには実体がある。二人分のドッペルゲンガーが出てきて、そのうちの一つは死んだ人間のドッペルゲンガーである。もう一つは主人公である技術者のドッペルゲンガーで、これは主人公の意思に反して行動し、しかも最後には暴力を振るわれて流血のうちに死に絶えるのである。死んでからは生き返ることはない。

二つのドッペルゲンガーのうち、活躍するのは役所浩司演じる技術者のドッペルゲンガーだ。この技術者は介助ロボットの研究をしており、その研究にドッペルゲンガーも一役かったりするが、だいたいは技術者の意思に反した行動をとって、技術者を悩ませる。その行動というのが、技術者が潜在意識のうちでは望んでいても、意識の表面では抑圧している願望、たとえば若い女性を姦淫したいといった願望だ。

その技術者と、もう一つのドッペルゲンガーとかかわりがある若い女性との男女関係がこの映画のメーンプロットになっている。それに技術者の親友とか、技術者のドッペルゲンガーが雇った若者などがからんでくる。この若者は、技術者がドッペルゲンガーに悩んでいることに同情して、そのドッペルゲンガーの殺害に一役かうのだが、のちに技術者と仲たがいする。

技術者は、ドッペルゲンガーの協力を得て介助ロボットを完成させる。そのロボットをかれは、有力なロボット企業に売り込もうとするのだが、なぜか考えを改めて、そのロボットを破壊してしまう。なぜそんなことをしたのか、映画からは伝わってこない。

こんな具合で、ややとりとめなさを感じさせる作品である。






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