小川洋子「博士の愛した数式」

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小川洋子は、多和田葉子と並んで、現代に活躍する日本人作家を代表する人だというので、どんな作風なのだろうかとまず思って手に取った本が「博士の愛した数式」だった。読んでの印象はそれなりにさわやかなものだった。筋書きに特異な点はないし、文章にも癖がない。現代文学にありがちな、焦燥感を以て読者を駆り立てるような切迫も感じさせない。それでいて味わいがある。要するに、よくできた小説なのだ。おそらく紫式部以来のこの国の女流文学の伝統を踏まえているのだろうと思う。日本伝来の女流文学には、読者を喜ばせようという志向が強いが、この小説にもそうした工夫は感じられる。

タイトルにあるとおり、テーマは数式だ。語り手が博士と呼ぶ人物にことよせて、数学の基礎知識が話題になる。それに野球にまつわる話がからんでくる。小説中の登場人物たちはみなタイガースファンなのだが、著者の小川も熱心なタイガースファンだという。そのタイガースファンの目線から野球にまつわるさまざまなエピソードが語られるのだ。その野球と数式とがどこで結びつくのか。それは背番号である。野球選手の背番号が、野球と数式とを結びつける。これはまあ、わかりやすい結びつきだ。なにしろ背番号は数式でできているのだから。

なかでも、かつての阪神タイガースのエース江夏豊の背番号が特別な役割を果たす。江夏は、記憶が途中からなくなってしまった博士にとっては、いまでも生き続けているのだし、また語り手とその息子にとっても特別な存在なのだ。その江夏の背番号は28.これは完全数なのだそうだ。完全数というのは、ある数字について、そのすべての約数を足した数が、それ自身の数と一致するような数字を指していう。そのほかこの小説には、友愛数とか、マイナス数字の平方根とか、素数の性質とか、オイラーの公式だとか、数式に関するさまざまな話題が出て来て、それらにまつわる部分を読んでいると、適当な頭の体操になる。

なかでも、博士が語り手の息子とかわす数列の話はなかなか面白い。数列1から10までの足し算についての問題を博士が語り手の息子ルートに出す。ルートは平均の概念を応用して、5×9+10=55と回答する。1から9までの数列を見ると5が平均値である。したがってその平均値である5を9回足すと1から9までの和になる。それに残りの10を足すと、1から10までの和55が得られるというわけだ。

これは、標準的な数学の授業で教えられるのとは違ったやり方だ。通常のやり方では、1から10までの和は、n(n+1)/2である。その通常のやり方以外にも、数列についての取り組み方は色々あると、語り手は言いたいわけであろう。とすれば語り手は、単に数字遊びをしているばかりか、読者を相手に数学教育をしているということになる。

そんなわけで、なかなか教えられるところの多い小説である。著者の小川洋子は、この小説の執筆に先だって、数学者の藤原正彦にいろいろアドバイスを受けたそうだ。その藤原が、新潮文庫版の解説文に、彼女とのやりとりについて記しているが、それを読むと彼女には、かなりな数学的才能があるように伝わってくる。さればこそ、読者を相手に数学教育が施せるというものであろう。







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