心と響き合う読書案内:小川洋子の読書案内

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「心と響き合う読書案内」は、小川洋子がFMラジオで話した読書案内を一冊にまとめたものである。40篇の小説を、それぞれ四季に沿った形で分類・配列している。それらを読むと、彼女の本を選ぶ基準とか、読み方がよく伝わってくる。

彼女の選んだ本には、女性の書いたものが多い。40冊中実に19冊が女性の書いたものであるし、また「万葉集」のように女性がかかわる本も出てくる。これは彼女が一女性として、同性に親近感を覚えるからだとも思えるが、やはり彼女は小説を、壮大な創造というよりも、人間の心の機微を描いたものとして捉えることからくるのだと思う。彼女は、カフカの「変身」のような世の中の不条理と取り組んだ作品や、フランクルの「夜と霧」のような人間の正義を取り上げた作品を読むときにも、どちらかというと作品の状況設定に沿ってではなく、作品世界を生きている人々の心の触れ合いとか、生きることの切なさといったものに注目する傾向がある。

だから、漱石の「こころ」の読み方も彼女らしい。小生などは、漱石は生涯姦通を描き続けたいわば姦通作家だと思っており、「こころ」などもその類だと思うのだが、小川は姦通にはとらわれず、純粋な人間同士の愛の触れあいという具合に捉えている。漱石が出てくれば、当然鴎外も出てこなければならないが、小川は鴎外を直接出すのではなく、その娘「茉莉」の父親鴎外についての回想のほうをとりあげている。これについて小川は、茉莉のお父さん子ぶりに触れているのだが、それを通じて鴎外という人の人間像の一端に迫ろうとしたのかもれない。もっともそれが成功したかどうかは、また別の事柄だが。

漱石・鴎外以外の作家の選び方にも小川らしいこだわりが感じられる。荷風、谷崎、三島、大江といった、日本の近現代文学を代表するといわれている骨太の作家はパスして、芥川や太宰といった、どちらかといえば線の細い、めめしいタイプの作家を選んでいる。川端はその例外で、小生などはこんな女性蔑視の典型的なタイプの作家を、女性の小川が選んだことにショックを受けたほどだが、小川がとりあげた川端の作品は「片腕」という、どちらかといえばマイナーな作品で、しかも川端の女性蔑視の視線が露骨に出ていないものだった。もし彼女が「伊豆の踊子」や「雪国」を取り上げたなら、その女性蔑視的な視線に我慢できなかったと思う。

さきほど、小川は人間同士の心の触れあいを重視すると言ったが、そういう姿勢はこの本のいたるところに現われている。「走れメロス」などは、小生は駄作だと思っているが、小川がこれを高く評価するのは、そこに人間同士の心の触れ合いとしての友情が描かれているからだろう。人間同士の心の触れ合いには、人間が人間を許すということも含まれる。そうした許しを扱った作品として、小川は島尾敏雄の「死の棘」だとかフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」を取りあげている。「死の棘」は文字どおりに人間が人間を許す話だが、「悲しみはこんにちは」は、その真逆で、人間を許せない少女の話である。人間を許せないというのもまた、人間を許すとはどのようなことかについて考えるきっかけを与えてくれるものだ。

愛とか許しのほかに、人間の怒りにも触れている。小川が取り上げたのは。大岡昇平の「長い旅」。これは戦犯容疑で死刑になった元軍人に取材したものだが、その軍人の高潔な人間性に大岡は感情移入するとともに、そうした高潔な人間が不条理な死を死なざるをえなかったことに激しい怒りをぶつけている。大岡は、「レイテ戦記」をはじめ、多くの戦記ものを書いたことで知られる。大岡が戦記ものにかくもこだわった理由は、あの戦争を戦った日本人のなかに大勢の高潔な人間がいたということを書き残しておきたいという激情に駆られてのことだった。その激情は、不条理なものに対する強い怒りに支えられていたのである。

日本の近代文学のなかで、女性作家の導きの星といわれる樋口一葉にも当然のこととして触れている。取り上げた作品は「たけくらべ」である。その一葉の作風を小川は、以外にも現代的な結構を感じさせるものだと言っている。そうした構成上の特徴のほかに小川が注目するのは、一葉の文章の持つリズムというか音楽性のようなものだ。一葉は古風な擬古文で書いているので、いまどきの若い人には敷居が高いかもしれないが、声に出してその文章を読むと、「独特のリズムが耳に心地よく、日本語が本来持っている波長を身体で感じ取ることが」できると小川は言っている。

同時代の作家として小川が取り上げているものに村上春樹がいる。村上もまた、言葉の持つ音楽的なリズムを重視した作家だ。その村上の作品から小川が取り上げるのは「風の歌を聞け」。これを村上自身駄作といってあまり自信を示していないが、小川は、この短編小説の中には、以後壮大な規模で展開される村上文学のすべての要素が萌芽として含まれていると高く評価している。もっともその評価がどのような基準にもとづくものか、詳しくは語っていないが。

小川は村上による翻訳作品も取り上げている。村上の翻訳はかなり定評があるらしく、小生も幾つか読んだことがある。その中から小川が取り上げたのは「グレート・ギャツビー」。この作品は、村上自身もっとも影響を受けた小説だと言っているものだが、それを日本語に訳すに当たって、村上が思ったということが紹介されている。村上は翻訳というものについて、次のように言うのだ。「翻訳というのはテキストとの間に親密なトンネルを作ることだ・・・作者と翻訳者との間で、秘密のトンネルを共有しあう。そのトンネルは、作品という海の一番深いところにある。まだ誰も足を踏み入れていない、その深いところまで沈み込んでいって、物語の魂を汲み上げてくる」

このような、作品の世界を深い海の底に喩えるのは、小川自身の小説「猫を抱いて象と泳ぐ」の中でも行われていた。小川は村上の以上の言葉に触発されて、深い海を感じさせる作品世界を創造したのだろう。






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