桐野夏生「OUT」

| コメント(0)
桐野夏生は、高樹のぶ子と並んで、現代日本の作家としてはもっとも多くの読者をもっているそうだ。高樹は女性の官能を描くのが得意で、小生も若い頃に一時期のめりこんだことがある。桐野の作品を読んだことはなかったが、こちらは女流ハードボイルドとも呼ぶべき派手な作風だという評判である。

「OUT」は桐野の作家としての名声を確立した作品だという。若い頃の桐野は、説明調の稚拙な文章で、緊張感に欠けた小説を書いていたようだが、この作品は、文体に進化が見られ、また構想も壮大さを感じさせるものになっている。現代日本文学の生んだ傑作といえるのではないか。

読んでの印象は、読み進むたびに物語にはまり込んでいくというか、ひきずりこまれてしまうのを強く感じるということだ。構想についていうと、実に綿密でかつ壮大な意図を感じさせる。細部まで計算されつくしているといった感じだ。かなりな数の人物が登場し、それらが密接に絡み合いながら展開していくのだが、そのいずれもが丁寧に描かれ、破綻することがない。桐野自身は、何かの機会に、自分は結末を明確にしないまま小説を書き始めるといっているが、この小説を読んだ限りでは、かなり綿密な意図を感じる。もし彼女の言うとおり、書きながら小説の展開を考えるのだとしたら、彼女の執筆姿勢はかなりコントロールされているということになる。そうしたタイプの作家は他にもいるのでめずらしいことではない。村上春樹なども、小説の結末を予め明確にせずに、書きながら筋の展開を考えると言っている。

文体ということでは、出だしのほうでは、説明調でやや弛緩した文章が鼻がつき、しかも言葉にリズムがないが、読み進んでいくうちに、言葉にリズムが出てきて、それが文章の勢いをもたらしている。要するに、一つの小説を書く過程で進化が見られるということだ。これは面白いことである。読者はすぐれた作家の誕生に立ち会っているような気になれる。

この程度の規模の小説としては、非常に大勢の人間が出てきて、それぞれ固有の物語を背負っているので、散漫になる危険が高いところを、作家は器用に纏め上げている。それぞれの人間の人生がさまざまに絡み合って、シンフォニーのような効果を挙げながら、ラストシーンに向って集約していく。そのラストシーンは、あまりにも意外な結末に終わるので、それまで息を呑んで読んできた読者は一気にカタルシスを味わうのだ。そのカタルシスというのが、開放感とは異なった趣のもので、それでも、これで終わった、というような、いわば始末感といったようなものなのだ。

四人の女たちが繰り広げる殺人事件をテーマにしている。この女たちは東京多摩地域にある弁当工場で夜間労働をしていることになっている。夜間のパート労働だから、みなそれぞれ生活に余裕はない。未来の展望も明るくない。そんな女たちが、殺人事件に遭遇し、それをめぐって振り回されるというのが、おおまかな筋書きである。その殺人事件に、もう一つ別の物語が絡んできて、これら二つの物語が、コンチェルトの二つのモチーフのようにからまりながら、やがて終局部へと流れ込んでいくというわけである。

小説は、登場人物たちの行動とか生き方について逐一追っていくという方法を取っている。だから登場人物たちの布置をよく理解する必要がある。また登場人物の特徴をよく掴んでおく必要がある。まず、香取雅子という中年女性。彼女がこの小説の究極のヒロインである。夫と息子と共に小さな一軒家に住んでいる。夜間パートをしているのは、生活のためというよりは、家族と一緒にいることがわずらわしいから、というふうに伝わってくる。つまり利己的な動機なのだ。だからといって、利己的一点張りでもなく、友人が夫を殺してしまったときには、彼女の苦境を救ってやろうと考えるのである。つまり、その夫の死体を解体して、手分けしてあちこちに捨てるという挙に出るのだ。

殺した友人は山本弥生という。夫を殺したのははずみからで、決して強い殺意を持っていたわけではない。行きがかり上殺してしまったというふうに設定されている。その夫は、生活能力のない男で、歌舞伎町あたりをほっつき歩いては、若い女を追い回し、またカジノに出入りしている。そのカジノとバーを経営している佐竹という男が、もう一つの物語の主人公として登場する。佐竹は、自分の店に出入りする山本をうるさく思い、ヤキをいれるのだが、その日の夜に山本は妻によって縊り殺されてしまう。山本自身はそのことには無関係だが、かれには殺人の前科があったりして、また状況からして警察に疑われ、犯人扱いされる。それに腹をたてた佐竹は、やがて四人の女たちが山本の殺害に加わっていることを確信し、自分を生贄にしたことについての復讐に出るのだ。

山本の周辺にも色々な人間がいる。その中でアンナという台湾女性が丁寧に描かれる。アンアとのかかわりは小説にはほとんどつながりがないが、女に対する山本の姿勢とか趣向といったものを語る背景のようなものとして使われている。

ヨシエという初老の女は、亭主に死なれ、その母親を背負い込まされた上に、不良の娘とか高校生の娘を抱えて、生活にあえいでいる。高校生の娘の修学旅行の代金が払えなくて、雅子に無心するほどだ。このヨシエは、雅子が率先する死体の処理に進んで協力するのだが、それは金欲しさのことなのだ。地獄の沙汰も金次第という日本古来のことわざを裏書するように、閻魔様も顔をそむけたくなるようなことに、彼女らは自分を駆り立てていくというわけである。

邦子という女は、男にもてあそばれたあげく、男に金を持ち逃げされて一文無しの境遇に落ち込んでいる。その癖、浪費癖がなおらず、そのためにやみ金から脅かされる始末。その闇金業者として十文字という男が登場する。十文字は、雅子らが死体処理をしたことをかぎつけ、自分自身が死体処理のビジネスに打って出る。雅子らと組んでだ。その十文字の周辺にもいろいろな人間がからんでくるが、十文字自身が決定的な役割を果たしているわけではないので、それらの周辺的人物の存在感は薄い。

このはかにも色々な人物が出てくる。雅子の周辺には、親子関係がうまくいかなくなって口をきいてくれない息子とか、夫婦関係の維持に関心を示さない夫とかだ。そのほか、弁当工場に住み込む日系ブラジル人がいるが、かれも小説の進行に重要な役割を占めるわけではない。にもかかわらず登場させたのは、雅子の男への対し方を描き出すための工夫だろうか。小生などは、クライマックス部分でこのブラジル人が出てきて、雅子の苦境を救うのではないかと考え、じっさい読者にそう思わせるような書き方がされているのだが、作者はこのブラジル人にそういう役柄は持たせなかったのである。書いている途中で、気が変わったのかもしれない。

小説は、雅子らの前に邦子の死体が送り届けられることで、大転換を迎える。佐竹は、釈放されたあとに姿をくらましていたが、じつはその間に、雅子らの周辺を入念に調べていたのだ。その結果、弥生が夫の山本賢司を殺し、その死体を雅子ら三人の女たちが協力して解体処理したということを確信した。そこで佐竹は、雅子らへ復讐してやろうと思うのだ。その手始めとして、邦子をくびり殺し、その死体を送りつけるのである。雅子らは、十文字と組んで死体処理のビジネスを始めたばかりだったのだが、その商売の品物として、邦子の死体を送ってきたというわけだった。それを転換点として、佐竹の陰謀が炸裂する。佐竹の最終的な目標は雅子である。だがその目標の達成は意外な結末を生む、というのがこの小説のあらましの仕組である。

この小説は、英語にも訳されて、大きな評判になったそうだ。その際に、「アジアで激しい小説を書いている女性作家」に分類され、それ以上でもそれ以下でもない存在だったのだと、あらためて気づかされたと、作者の桐野は言う。それ以前にも、日本国内ではエンタメ小説家に分類されていたそうだ。桐野自身は、そういったレッテル貼りに不満を感じているようだが、この「OUT」を読むと、桐野が、馬鹿な連中によるレッテル貼りなど超越した優れた小説家だということがわかる。馬鹿な世間のことなど気にする必要はない。





コメントする

アーカイブ