現代の君主:グラムシを読む

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日本でグラムシの著作といえば、1960年代初頭に合同出版社から刊行された「グラムシ選集」が初の本格的なテクストだったが、一般の読者向けには、1964年に青木文庫から出された「現代の君主」がもっともポピュラーなものとなった。小生なども学生時代に読んだものである。これは、グラムシ自身の編集になるものではなく、日本のグラムシ研究者のグループが、グラムシの「獄中ノート」から政治にかかわる部分を抜粋して一冊にまとめたものである。その研究者のグループとは、石堂清倫をはじめ五人からなり、「東京グラムシ研究会」といった。その一人であった上村忠男が、1994年に青木文庫から再版を出した。再版にあたっては、訳語の変更はじめかなりな手直しをしたそうである。その再版本が今日ちくま学芸文庫から出ている。だから今日グラムシに関心のある人は、まずこのちくま学芸文庫版の「現代の君主」からとりかかるのがよいだろうと思う。

「現代の君主」という言葉は、マキャヴェッリの「君主論」を強く意識している。グラムシは自分自身の「君主論」を書いたともいえる。かれはそれを「新君主論」と名付けるつもりでいた。マキャヴェッリの「君主論」が、17世紀におけるイタリアの国家的な統一とそれを可能にする政治権力のあり方をテーマとしたのに対して、グラムシの「新君主論」は20世紀におけるイタリアの新たな政治権力をテーマとしている。その政治権力が目指すべきは、労働者階級の解放と社会主義・共産主義の実現である。したがってこの「新君主論」は、「君主論」同様に、あるいはそれ以上に実践的な文章であり、政治的なプロパガンダとしての性格を色濃く持っている。その点では、レーニンの「国家と革命」に比較されるものである。レーニンの「国家と革命」はロシアの現実を踏まえて書かれていたが、「新君主論」は、先進資本主義諸国の可能性を展望に入れながら書かれている。

マキャヴェッリの「君主論」は、当時のフィレンツェの指導者であるメディチ家の当主にあてて書かれたものであり、君主として特定の個人を想定していた。それに対してグラムシの「新君主論」は、特定の個人を想定してはいない。それが想定しているのは「政党」である。グラムシがいう「政党」とは、新しい可能性を背負った階級としての労働者階級を代表するものである。というか、労働者階級の立場に立って、その政治的な意思を実現することを目的とした組織である。グラムシはこの「政党」すなわち共産党に、人類の未来をかけた。共産党こそが、新しいい時代の君主となって、時代を導いていく、というのがグラムシの政治理論の核心的な信念である。

以上の趣旨をグラムシは次のように書いている。「現代の君主、神話としての君主は、実在の人物、具体的な個人ではありえない。それはひとつの有機体でのみありうる。それはひとつの複合的は社会的要素であって、それまで行動のうちにあらわれて部分ごとに自己を主張していた集合的意思がひとつのまとまった具体的な形姿をとりはじめたものなのである。この有機体は、歴史の発展によってすでにあたえられている。政党がそれである」(上村忠男訳、以下同じ)

グラムシがここで「政党」と呼んでいるものが、「共産主義政党」すなわち「共産党」であることはいうまでもない。労働者階級の「集合的意思」が一つの具体的な形姿として発現したもの、それが共産党であるとグラムシはいう。共産党以外にも、さまざまな政党があることはいうまでもない。ブルジョワにはブルジョワの集合的意思を体現する政党があるし、地主階級には地主の集合的意思を体現する政党がある。そうした政党には、進歩的なものも反動的なものもあるが、共産党こそがもっとも進歩的な政党である。なぜならそれは歴史の流れに竿をさすものだからである。

グラムシが政党としての共産党を現代の君主に擬したことには、いつくかの理由が考えられる。マキャヴェッリの時代には、イタリアは粉々に分裂しており、それらをまとめて統一国家を作ることが当面の課題だった。無論階級間の対立はあったが、その対立よりも国家の分裂のほうが喫緊に解決すべき問題だった。国家の分裂を解消して統一国家を作るためには、少なくともマキャヴェリの時代においては、すべての階級の融和が必要であった。そういう融和をもたらすのが強烈なカイザー主義だということは、歴史の常識のようになっている。だからこそマキャヴェッリは、彼の時代にふさわしいカイザーの登場を望んだわけであろう。その新しいカイザーをかれはメディチ家の当主に期待し、その個人的な能力によってイタリアが統一国家となることを期待したのである。

だが、20世においては、階級間の対立は政治を動かす基本的な要素に発展している。そうしたなかで、世界を進歩させていく動機をもった階級は労働者階級しかありえない。だから、その労働者階級の集合的な意思を体現した政党こそが、歴史を前へ進める原動力になりうる。そういう歴史的役割を担った政党をグラムシは「現代の君主」と呼んだわけであろう。

グラムシには、「現代の君主」というタイトルで本を書く構想があった。その本の構成についても若干の言及をしている。構想の柱の一つは、「現代の君主がそれの組織者であるとともに能動的に作動している表現ともなっている人民的・国民的な集合的意思の形成」にかかわることがら。もう一つは、「知的道徳的改革の問題、すなわち宗教または世界観の問題」である。前者は政治的な行為についての考察であり、後者は革命的世論の形成にかかわる考察である。どちらも、主体は階級としての労働者であり、その集合的意思の担い手としての政党である。集合的な意思は、個人によっては適切には担われない。それは集合的な組織を求める。それが政党であり、その政党こそが「現代の君主」だとグラムシは言うのである。グラムシが「君主」という言葉で意味しているのは、政治的な実践の主体ということである。現代は、集合的な組織としての政党によって、歴史を前進させていくような重大な行為がなされる時代。そうグラムシは考えるのである。

こう見てみると、グラムシの「現代の君主」論は、政治的な実践の書であり、また、世界の知的道徳的改革をめぐる議論であることがわかる。グラムシには、経済主義への強い反発があって、いわゆる上部構造の役割を重んする傾向が強いので、革命は単に経済システムの変更にかかわるにとどまらず、知的道徳的な改革を伴うと考えていた。しかも知的道徳的な改革は、全体としての世界の改革の結果ではなく世界全体の変化を強くうながす原動力としても働くと考えていたのである。






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