吉田裕「日本軍兵士」

| コメント(0)
吉田裕は、日本近現代史とくに軍事史が専攻だそうだ。軍事史といえば、これまでは旧軍関係者や自衛隊関係者の専売特許だった。それには資料の制約ということもあった。その資料が近年豊富に公開されるようになって、吉田のような純粋な研究者にも事実の詳細な把握が可能になってきた。そういう学問上の背景をもとにして、軍事史研究の立場から、アジア・太平洋戦に日本が負けた理由を明らかにしたのが「日本軍兵士」(中公新書)である。これは日本軍兵士が置かれていた物理的・精神的条件を前提にすれば、日本が負けたのは必然的なことだったことを実証した著作である。

これまでも、連合国軍に比較した日本軍の物量的な能力の圧倒的な低さとか、内務班などに見られる暴力の蔓延など、兵士の戦闘意欲を著しく阻害する要因を指摘する研究はあったが、吉田のこの本のように、そうした日本軍の抱えていた構造的な問題をここまで体系的・組織的に取り上げたものはなかった。だからこの本を読むと、日本軍が負けたのは、当然のことだと思い知らされて、ため息が出てくるほどである。

まず、アジア・太平洋戦争における日本の人的被害を見ると、軍人・軍属が230万人、民間人が80万人、民間人のうち30万人は植民地や占領地など海外での死者、50万人は空襲などによる国内での死者である。軍人・軍属230万人のうち、その九割方が1944年以降に死んでいる。吉田は、アジア・太平洋戦争の時期区分を四段階にわけているが、1944年以降を「絶望的抵抗期」と名づけ、この時期に日本軍兵士たちが置かれた過酷な状況を分析する。

日本軍関係の死者の内訳から吉田は分析する。死因のうちもっとも多いのは餓死で、全体の60パーセントをしめる。日本軍当局は、輜重の整備にまともにとりくまず、兵士たちは十分な栄養がとれなかった。それが占領地における大規模な略奪とか現地人の殺戮などにつながったわけだが、戦局の悪化にともない、離島を中心として食料供給の道を閉ざされ、兵士たちはいたずらに死んでいった。戦死者のうち6割が餓死などというデータは、人類の歴史のなかでも、アジア・太平洋戦争における日本の例以外に見出すことはできないのではないか。その点、日本軍当局は実に無責任な連中だったということになろう。

餓死は、単純な餓死もあるが、合併症が多いのが特徴だという。とりわけマラリアの脅威が大きかった。マラリアで体力が弱っているところに食料がないのであるから、速やかに餓死するわけである。そのほか、神経症との合併症も多かった。兵士たちの多くは、戦場の過酷さに耐えかねて神経症を発症したが、それがある種の拒食症を促し、餓死を早めたとされる。

そのほか、戦死の原因としてさまざまな要素が分析される。餓死の次に多いのが海没者。これは戦局の悪化にともない、輸送船に過大な兵士を詰め込んだことから、被害の規模が拡大した。

自殺も多い。様々な事情から正確な数字は明らかでないが、「戦死」扱いされたものにも自殺者がかなりの割合で含まれていると吉田は推測している。自殺には、戦時神経症が原因の場合もあるが、無視できないのは、事実上自殺を強要されたことである。東条内閣のときに出された「戦陣訓」は「生きて虜囚の辱めを受けず」とうたって、捕虜になることを厳禁した。だから兵士が負傷して部隊の足手まといになると、「自決」を迫られたり、「処置」と称して殺された。硫黄島の生き残り兵士の証言によれば、敵弾で戦士したものは全体の三割、残りのうち、六割が自殺、一割が他殺(同僚による殺害)だったという。

こうした日本軍兵士たちの死を吉田は、「約230万人といわれる日本軍将兵の死は、実にさまざまな形での無残な死の集積だった」と評している。またそうした死が蔓延する戦場の状況を、トラック諸島で従軍した俳人金子兜太の言葉を借りて、「死の現場」と呼んでいる。

ついで、日本軍兵士をめぐる物量的、精神的条件の詳細について分析している。兵士は過酷な戦争を戦わねばならないから、国民の中から比較的体格のよいものを徴用する。ところが敗戦の色が濃くなって余裕がなくなると、体格の劣ったものや、年取った予備兵までが動員されるようになる。そういう兵士たちにとって、戦場での毎日は、持参すべき荷物の重量ひとつとっても過酷なものだった。場合によっては、自分の体重の半分を超える重量の荷物を背負うこともあった。そのようなときには、亀のようにじたばたしながら、同僚に立たせてもらうのだという。小生のように非力な者には到底つとまりそうもない。

装備品も、戦局の悪化にともない、ひどいものになっていった。吉田は軍靴を例にとって、粗悪化していく過程を描いている。粗末な軍靴に悩まされた兵士については、大岡昇平も自分の実体験として取り上げているほどである。軍靴は歩兵にとって命綱のようなものだから、それが粗悪では戦う気力がなえてしまうだろう。軍靴に限らず、支給品の粗悪化はひどいもので、兵士たちの格好はまるで乞食のようだったという。体格の悪い乞食が、栄養の行き届いた大男と戦うわけである。

粗悪なのは装備品だけではない。医療の水準も寒々としたものだった。とくに歯科医療がひどかった。歯科治療体制が確立されておらず、兵士たちはほぼ例外なく虫歯に悩んでいた。歯が痛くては、戦う力も出て来ないというものだ。医療が悪かったせいもあって、マラリアや結核が蔓延した。結核は集団感染の恐れがあるので、何らかの対応を軍首脳部に促した。軍首脳部は、治療や予防に力を入れるのではなく、患者の排除でその場しのぎをしようとした。こうした無責任体制は、なにも意図的に押し進められたわけではない。日本軍の客観的な能力があまりにも低かったのである。

その日本軍首脳の姿勢を吉田は「異質な軍事思想」と呼んで、その特徴を列挙している。一つは短期決戦主義。これは日露戦争以来の日本軍の伝統であって、限られた資源で強大な敵を相手に戦うには、短期決戦で敵の出鼻をくじくのが有効だとの考えに裏づけられている。二つ目は、戦闘にすべてを優先させる作戦至上主義。これが輜重体制などの後方支援の軽視につながり、その結果現地調達と称して、占領地の住民への略奪を加速させた。日本軍は野盗とかわりないごろつき集団に、期せずしてなってしまったのである。三つ目は、極端な精神主義。精神主義の伝統は軍隊のみならず日本社会の大きな特徴であるが、それが軍隊内では増幅されてグロテスクな様相を呈した。その結果、銃剣を振りかざして戦車に突撃したり、死を覚悟して敵艦船に飛行機ごと突進するような異常な事態を生んだわけである。極端な精神主義は、人間の肉体で科学的な機械兵器に代替させるという行動様式を蔓延させた。肉弾三勇士は日露戦争のエピソードだが、それが体現している軍事思想が、アジア・太平洋戦争の末期にまで日本軍に取り付いていたのである。それでは近代的なアメリカ軍に勝てるわけがない。

ほかにも色々な事柄に言及しているが、要するに日本軍がいかに時代遅れの装備や劣悪な条件のもとで戦わざるを得なかったかについての検証となっている。

吉田はこの本の最後で、戦争をめぐる最近の日本人の姿勢の変化に言及し、それに対して危惧を表明している。「日本軍はこんなに強かった」といった日本軍礼賛本や、「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」とった日本礼賛本が人気をとり、日本人の戦争に対する根拠のない自信が蔓延するようになった。そういう人達は、過去をまともに検証せず、夜郎自大的な傲慢さに酔いしれているフシがある。そんな風潮に吉田は大きな危惧を抱くというわけであろう。






コメントする

アーカイブ