日蓮の生涯と思想

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岩波書店の「日本思想体系」シリーズの「日蓮」の編には戸頃重基と高木豊による解説が付されている。新書一冊分ほどのボリュームがあって、日蓮へのガイドブックとして手頃である。戸頃が日蓮本人の生涯と思想について、高木が日蓮の後世への影響について述べている。日蓮へのガイドとしては、ほぼ同じ時期に出た「仏教の思想」シリーズの日蓮特集「永遠のいのち」もあり、この両者を読めば、宗派の立場とは別の視点から、日蓮の大まかな姿を捉えることができよう。

まず、戸頃の書いた部分から。戸頃は日蓮の生涯にわたる信念として「民の子の自覚」をあげ、その形成と展開の過程として日蓮の生涯の営みを見る。また、その活動の具体的な形は「折伏」となって現れたが、これは他の宗派には見られない日蓮宗独自といってよい特徴である。この折伏というのは、はた目には野卑な攻撃性としてうつり、そこがインテリに嫌われる原因ともなっている。しかし折伏は日蓮思想の中核をなすので、これを除外して日蓮を語ることはできない、と戸頃は見ている。

戸頃は日蓮の生涯を四つの時期に区分する。第一は、清澄・比叡における修行時代。第二は鎌倉における布教時代。第三は佐渡における流罪時代、第四は身延における隠棲時代である。「仏教の思想」シリーズは、修行時代を除いた三つの時期、すなわち鎌倉、佐渡、身延の時期に分けているので、これは日蓮の生涯の時代区分としては穏当なところだろう。

日蓮は阿波の漁師の子として生まれた。身分的には下層に属する。日蓮自身「旃陀羅の子」と称している。旃陀羅とは最下層の身分のことである。こうした自己規定が、出生にかかわるのは無論だが、それのみのはとどまらない。日蓮は自分をあえて下層の出身と自覚することで、広く民衆全体を救済するという使命感を得たのである。日蓮がこうした自覚を公然と表現するようになるのは、晩年の身延時代以降のことである。日蓮は晩年に至って、自分自身を地湧の菩薩として自覚するようになる。地湧菩薩とは法華経の「従地涌出品」に出てくるもので、土着の菩薩という意味である。その土着の菩薩の筆頭に上行菩薩が位置するが、日蓮は自分をその上行菩薩に見立てた。そうすることで自分が、仏によって衆生救済のために遣わされた使者だと主張したのである。そういう自覚に立って、自分が庶民すなわち土着の人々の代表だと主張したわけである。単に自分の生まれを卑下するだけなら、若いうちからそうしていただろう。だが実際にそれにこだわりを見せるのは、晩年にいたって地涌菩薩の自覚を持つようになってからなのである。

日蓮が社会の下層に布教の力点を置いたのは画期的なことだった。平安仏教は貴族層のものだったし、鎌倉仏教も上層階級を中心として広まった。だいいち、法然、親鸞、道元といった鎌倉仏教の教祖たちはみな貴族ないしそれに準ずる高い身分の出身だった。日蓮のように自身が下層階級の出身で、しかも比較的下層の人々から帰依された宗教家はほかにいなかった。日蓮は、関東の在地武士層を主な後援者としていた。下総の富木氏はその代表である。そうした下層武士たちのエートスのようなものを日蓮も共有していたのではないかと戸頃は推測している。日蓮には気取ったところは全くなく、その思考スタイルは現実的である。そうした現実性は、下層武士のメンタリティに通じるところがあるということらしい。

日蓮の思想と行動を突き動かしていたのは折伏の情熱だという。折伏の原型は、天台宗の教相判釈あたりらしい。教相判釈というのは天台智顗が始めたもので、諸経を序列化し、法華経をその頂点に置くものである。日蓮はそれをもとに、さらに一歩進め、法華経の絶対性を強調するばかりか、他経の排撃を正当化した。それが独得の攻撃性となり、他宗から蛇蝎のごとく嫌悪される原因となった。折伏は日蓮死後も受け継がれ、現代に至るまで日蓮系の宗派の特徴であり続けているようだ。

日蓮の折伏キャンペーンは、四箇格言をモットーとした。四箇格言とは、「念仏無間、禅天摩、真言亡国、律国賊」というもので、より具体的には、「念仏は無間地獄の業、禅宗は天摩の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」という。天台宗が入っていないのは、天台が法華経を重視することに基づく。戸頃によれば、日蓮は意外に保守的で、若い頃に比叡山で受けた天台の教えにかなり忠実なところがある。天台は折伏の対象とはならなかったのである。各宗派に対する日蓮の攻撃の詳細について、戸頃は一々説明しているが、煩瑣にわたるので言及しない。

日蓮の主要著作については、この本に収めた二十三篇の文章に触れているだけで、その全体像の評価はしていないが、行間からも含めて分類整理すると次のようになるだろう。日蓮が本格的な執筆活動を行うのは、鎌倉時代以降である。鎌倉時代を代表するのは「守護国家論」と「立正安国論」である。どちらも法華経と政治との関係を論じたものだが、具体的な内容は、他宗とりわけ念仏宗への攻撃である。したがって折伏の書といってもよい。「守護国家論」は「安生立国論」の準備論文あるいは草案のような位置づけとみてよい。

佐渡時代を代表するのは「開目抄」と「観心本尊抄」である。日蓮の宗教思想が初めて体系的な形で展開されたものといえる。「開目抄」を人開眼、「観心本尊抄」を法開眼と称する。

身延時代を代表するのは「撰時抄」と「報恩抄」である。「撰時抄」は日蓮の歴史意識を、「報恩抄」は日蓮の倫理思想を展開している。日蓮の倫理思想がけっこう保守的だったことは、天台の影響の強さと、下層武士のメンタリティの共有というところに原因があるらしい。

晩年の日蓮は多量の書簡類を書いており、それらの中で、自分自身の宗教意識をきめ細やかに表現しているのだが、この本では書簡類はあまり取り上げていないし、晩年のものは全く除外している。

次に、高木豊による日蓮の後世への影響の説明。これについては、法華経の受容、神観念、此土についての考えすなわち世界観の三つの視点から分析している。そのなかでもっとも興味深いのは、日蓮宗の神祇信仰との親縁性だ。いわゆる神仏習合は、真言や天台でも行われたが、日蓮宗は独自の神観念を発達させた。「ひげ曼荼羅」と称されるものを見ると、仏教の守護神と並んで「天照大神」と「八幡大菩薩」と書かれているのがわかる。日蓮宗はこの二神を国土の守護神とし、その下にもさまざまな天神地祇を守護神として位置付けていたのである。日蓮宗の寺院の一部が修験道と結びついているのは、こうした独自の神観念の影響であろう。





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