日本沈没:森谷司郎

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1973年の映画「日本沈没」は、同年出版された小松左京の同名の小説を映画化した作品。近未来における日本列島の消滅をテーマとしている。荒唐無稽なフィクションと笑い飛ばすには、多少の現実味があるテーマだ。当時は、関東大震災の再来がまじめに議論されていたし、日本が災害に弱い国だという認識がいきわたっていたので、日本の消滅を描いたこの作品は、ある程度の現実感をもって受け止められた。じっさい、38年後には、東北大震災がおきたわけで、この映画が予測したようなカタストロフィが実現してしまった。

当時はまた、終末論が流行ってもいた。終末論は世界の終わりを予言したものだが、その終末が日本という狭い範囲で起こるというのがこの映画のテーマだ。どれくらいの科学的知見を背景にしているのかわからぬが、当時の地球科学はいまほど発達していなかったので、ある程度想像力の働く余地はあった。その想像力がこの映画の原動力になったわけだ。原作者の小松自身どれくらい自覚していたかはわからぬが、この作品が、その後オウムへとつながっていく終末論思想(アルマゲドン)に一定の推進力を与えたとはいえそうである。

筋書きは単純明快だ。一人の科学者が、日本列島の異変をもとに、その近未来における消滅、すなわち日本沈没を予言する。事態は予言どおりに進み、やがて日本は激烈な火山噴火を伴いながら、あっという間に沈没をはじめ、やがて完全に消滅するというような内容だ。

そこで問題は、1億2千万人の日本人の始末をどうつけるかということなる。丹波哲郎が総理大臣をしている日本政府は、他国に日本人難民を受け入れてくれるように依頼する。その結果、日本人の幾許かは難民として海外に移住できることになったが、大部分の日本人は、国土もろとも海底に沈んでいく。それはそうとして、諸外国の政府に日本人難民の受け入れを依頼する政府が、能天気に描かれている。難民は人道問題だから、諸外国は人道の見地から日本人難民を救って欲しいというのだが、それは返す刀で自分にも跳ね返ってくる。諸外国に対してそういう要請をするからには、日本自身が日頃から世界の難民に手をさしのべてることが求められると思うのだが、じっさい日本はそういうことをやったことはないし、やるつもりもなかった。この映画にもそういう視点はない。日本は諸外国に対して片務的な救済を求めて当然だという思想が伝わってくる。

そういうことを踏まえて、単に日本人の延命にこだわるのではなく、日本人全体が国土と運命を共にするという選択も示される。常識的には、その選択のほうが理にかなっているのではないか。運の強い日本人が海外で生き延び、やがてユダヤ人のためのイスラエル国家のような、日本人のための国家を世界のどこかで建設したいということになれば、世界にとって災厄以外のものではなかろう。





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