報恩抄:日蓮を読む

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建治二年(1276)、阿波清澄寺の僧侶道善坊が死去した。その報を受けて書いたのが「報恩抄」である。日蓮はこれを弟子の日広に持たせ、身延から阿波まで届けさせている。道善坊は、日蓮が12歳で清澄寺に入山したときの師匠であり、16歳にして得度を施してくれた人物。日蓮にとって、信仰上の父親ともいうべき人物だ。清澄寺自体は天台宗の寺院であり、日蓮も天台の教えを受けたのだったが、その後道善坊は念仏に宗旨替えし、法華経に帰依することはなかった。そんな道善坊を日蓮は厳しい目で見ていたが、さすが恩愛の念は捨てがたかったのであろう、その死を悼んで書を寄せた。しかし、ただの哀悼の書ではない。「報恩」という言葉を使ってはいるが、むしろ道善坊の過ちを責め、その過ちを法華経の功徳によって正してやろうという意気込みがこもっている。そうすることで、道善坊が阿鼻地獄に陥ることを免れ、救われることを願ったのだといえる。


このように、この書は法華経の功徳によって道善坊を外道の苦しみから救ってやろうという目論見をもっているのだが、それについて、なぜ法華経でなければ道善坊を救えないのか、それが徹底的に説かれる。その論証には、日蓮独得の教相判釈の手法が駆使される。法華経は、あらゆる経よりも勝れているがゆえに、最も功徳に富んでいる。その功徳は絶対的なもので、ほかの経にはありえないものだ。ほかの経では救われない。ひとり法華経のみが人を成仏させることができる。ところが道善坊は生前法華経を捨て、念仏に走った。だから本来阿鼻地獄に落ちるべき定めなのだが、法華経の偉大な功徳がそうした道善坊を救ってくれるだろう。そういう期待を込めて、この書を書いたというのである。

この書の冒頭に日蓮は次のように書いている。「夫老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほうず、畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや」。畜生すら恩を忘れないのであるから、ましてや人間は受けた恩を忘れるべきではない。それゆえ自分は、師匠の道善坊のために法華経の功徳を回向し、もってかれの成仏を願いたいというわけである。

なぜ道善坊は法華経を捨て、念仏に帰依したのだろうか。それを日蓮は、道善坊の臆病に帰している。日蓮は言う、「故道善坊はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとわをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽梨にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしを、あながちにをそれて、いとをしともおもう年頃の弟子だにをもすてられし人なれば、後生はいかんがとおもう」

つまり道善坊は、地頭やその意向を受けた僧侶たちによって迫害されることをおそれて、法華経を捨てたというのである。ちなみに地頭の東条景信は念仏者であった。小松原の法難をしかけ、日蓮の命を狙ったのは景信の仕業である。その景信をおそれて、道善坊は日蓮に敵対する姿勢を示した、そう日蓮は受け取っていたようである。そのわだかまりは、次のような言葉に現れている。「さどの国までゆきしに、一度もとぶらわれざりし事は信じたるにはあらぬぞかし。それにつけてもあさましければ、彼人の御死去ときくには、火にも入、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたたいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ、心には遁世とわおもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出づるならば、末へもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず」。日蓮は道善坊が自分に対してあまりにも冷たかったことに、わりきれぬ思いを抱いていたことが、よくうかがわれる一文である。

それでも日蓮は、道善坊のために成仏することを願わざるを得ない。それは法華経の功徳がかなえてくれる。そう日蓮は信じた。どんな悪人でも、最後に法華経の功徳にあずかることができれば、成仏することができる。自分はそれを信じて、法華経の功徳を道善坊のために回向したい。そう日蓮は言うのである。

日蓮は法華経の行者との自覚にもとづいて行動しているから、自分こそがその法華経の功徳を道善坊のために供養できる。そう思ったのは不自然ではない。日蓮は言うのだ、「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此功徳は伝教・天台にも超えへ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正・像二千年の弘通は末法一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむる耳。春は花さき、秋は果なる、夏はあたたかに、冬にはつめたし。時のしからしむるに有ずや」

このように言ったうえで日蓮は、自分が間にたって道善坊のために法華経の功徳を回向し、かれの霊魂を成仏に導きたいと言うのである。「日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此功徳は故道善坊の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経」

なお、この書の中でも日蓮一流の教相判釈が展開されるが、ここでの攻撃の主な対象は真言宗である。道善坊が晩年帰依したいたという念仏については、なぜか、攻撃の矢さきはそう鋭くはない。





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